日本サッカー未解明問題ファイル「キリスト教と神のこと」BACK NUMBER
鎌田大地の言葉と長谷部誠の助言に共感しつつ考える… 日本とドイツ(欧州)で違う「自己主張・自己責任・専門性」とは
posted2021/04/30 17:02
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by
JMPA
日々、欧州サッカーとその地でプレーする欧州組のニュースは、この切り口で眺めることにしている。
「キリスト教文化圏の影響」
なにせデータをたどると、サッカーの世界で「キリスト教文化圏かどうか」は、その競技力や発展に決定的な違いを生んでいるのだ。これまでのW杯全大会でベスト4以上にキリスト教国以外が入ったのはわずか2例しかない(02年のトルコと韓国)。90年の歴史で、それ以外はわずか2なのだ。
つい先日も、現海外組のトップランナーの一人でもある鎌田大地(アイントラハト・フランクフルト)の興味深い証言を目にした。
「欧州1年目のとき(ベルギーにレンタル移籍する前のフランクフルト在籍時)に、ちょっとヤル気がないみたいに見られがちで、ハセさん(長谷部誠)にも『それだと損するから、やっているようにしっかり見せたほうがいい』とアドバイスされたこともあります」
(参照:https://number.bunshun.jp/articles/-/847847)
本人は別のインタビューでも「黙して、集中しながらプレーしようとする狙いもある」と言っている。
日本の感覚からすれば分からなくもない。しかしこの地で長年プレーする長谷部誠からすれば「やめたほうがよい」となる。
ドイツは自己主張の渦巻く世界
筆者自身も15年前のドイツでのプレー経験(10部だが)から、本当によく分かる。ヨーロッパのピッチ。そこは、壮絶な自己主張の渦巻く世界。常に自分から言葉とテンションを発しながら、時に意見の衝突を厭わない姿勢を見せていくくらいでちょうどよいのだ。自分の特性を以て、社会(チーム)の公益(勝利)に貢献できることを主張しなければならない。これはいま日本で求められる「国際人像」とも重なる。
黙っていることは「何も考えていないこと」「考えを言葉にする努力を怠っていること」を意味する。つまりは「言うまでもないことは大したことがないこと」ということだ。筆者はドイツ在籍時代、明らかにチームで一番下手っぴな選手が、監督に「俺はやれる。試合に使ってほしい」と顔を真っ赤にして主張する姿を目にした。
ではなぜ、この「主張」にキリスト教と関係があるのか。そもそもこの宗教は愛を語るものではないのか?