JリーグPRESSBACK NUMBER
佐藤寿人が第二の人生で目指す“次世代ストライカー育成”「いつかミシャのような監督になれたら」
posted2021/02/11 17:03
text by
石井宏美Hiromi Ishii
photograph by
J.LEAGUE
クラブに引退の意向を伝えたのは昨年11月の初旬のことだった。身体に痛いところはない。まだまだピッチを走り回ることもできる。
毎日、「サッカーが楽しい」と練習場へ向かう夫、父を見続けてきた家族からは「もうプレーする場所がないというまでやってもいいんじゃない?」と言われたという。まだサッカー選手でいてほしかったとも。しかし、現役から退く決意は固かった。
「選手としてピッチの上で貢献できていないと感じていて、決断しなければいけないと思ったんです。やろうと思えばやれる状態ですが、毎試合ピッチに立って貢献できているかと言えばそうではなかったですし、監督が目指すサッカーをFWとして結果を出していなかったので。来季プレーするのはプロとしてどうなのか、そう考えて決断しました」
かねてから、自らの進退は選手としてピッチの上で何ができるか、そしてクラブにどう貢献できるかを基準に考えていた。だからこそ、「ここが自らの引き際」だと悟った。
「一応38歳で引退という形になっていますが、早生まれなので(昨季は)実質39歳のシーズンでの引退。もちろん、選手を続けられればそれが一番良かったとは思うんですけど」
憲剛と話していた「準備が足りないね」
アスリートは誰しもいつか現役から退かなければならない。佐藤も30代後半となったここ数年は、選手として長くプレーしたいという思いと同時に、セカンドキャリアを意識して冷静に物事を見つめるもう1人の自分がいた。
「将来、指導者になるのであれば、そのスタートがあまり遅すぎてもいけない」
ベガルタ仙台時代はチームメイトとしてプレーした恩師の一人、森保一(現日本代表監督)が初めて監督としてサンフレッチェ広島を指揮したのが2012年、43歳のときだった。
「もうすぐ40歳になる年ですからね。そう考えると、僕もいつまでも選手でいてはいけないなというか。選手でいる以上は、当然、選手として時間を使うのが主になるのが当たり前で、それ以外のことに時間を費やすのは必然的に限られてしまいます。なかなか次のステップで自分がやりたいと考えていることには進めないと思いました。(中村)憲剛くんとも、選手をやればやるほど次への準備が足りないねというような話をしていたんです。もちろん、話があってできることではあるんですけど、じゃあ監督をやるとなったときにいくつで監督になるんだろうねと語ったりも。その部分の積み上げもこれから大事なんじゃないかって」