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エモやんが語る野村克也の男気に“最強ホークス”の原点あり「お前ら、江本に借りがあるだろ!」
 

text by

佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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posted2020/11/26 17:05

エモやんが語る野村克也の男気に“最強ホークス”の原点あり「お前ら、江本に借りがあるだろ!」<Number Web>

発起人の江本氏は、野村氏とバッテリーを組み4年連続2ケタ勝利。引退後はノムさんにとって気の置けない話し相手だった

ノムさんはいい顔で、ヤクルトのユニフォームを着ていた

 晩年はそんな関係も和らぎ、特に2017年に沙知代さんが亡くなったあとは野村氏自身も前向きな思いを口にしていたという。江本氏がこのプロジェクトへの決意を強めたのは、2月11日に急逝した野村氏の遺体と対面した際だった。

「ノムさん、本当にいい顔をしていてね。あんな顔は見たことなかった。いつも顔を見ると嫌味しか言わなかったけど。でもね、布団に横たわって、ヤクルトのユニフォームを着ていた。少し残念な気持ちになったね。みんなはヤクルトのイメージが普通なのかもしれないけど、一緒に戦った仲間は違う。半分はヤクルトでも、半分は南海のユニフォームを着ていて欲しかったね。最後の姿を見てそう思ったよ」

「俺たちの結束が強くなったのはヤジのおかげ」

 72年に東映からトレード移籍した江本氏は、75年オフに阪神に放出されるまで4シーズンを南海で過ごした。当時の大阪圏は人気球団の阪神に加え、阪急、近鉄、南海と4球団が揃う野球の中心地。大阪球場のすぐ近くには吉本興業の演芸場「なんば花月」があり、出番を終えた芸人が、試合中に勝手に入り込みベンチの後ろに立って見ていたこともしばしば。江本氏は、阪神に比べ低かった注目度を上げようと長髪パンチパーマに髭をたくわえたこともあり、実に自由で、豪快な時代だった。

 手狭でスタンドがすり鉢状に傾斜していた大阪球場は、ヤジがよく響いた。ある日、敵の外野スタンドから「南海の監督~!」と呼ぶ大きな声がした。「キャッチャー替えたれ~!!」。いうまでもなく当時の野村氏は監督にして4番打者で捕手だ。

「野村はムス~っとして、ベンチで選手は笑いを堪えてたな。そんなんはユーモアのあるヤジだったけどね、えげつないものもあった。野村は特にようヤジられてね。自分らの大将がボロクソに言われるのは腹立つ。何とか野村を助けたい、絶対に勝ってやると。俺たちの結束が強くなったのはヤジのおかげでもあるよ」

【次ページ】 「先にエース番号をつけておけ」

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