サムライブルーの原材料BACK NUMBER
片目が見えなくても超ポジティブ。
松本光平、「何とかなる」の原点。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byYuki Suenaga
posted2020/08/06 20:05
ニューカレドニアでは屋根が藁葺きのホテルに住んでいたという松本。すべての経験をポジティブにとらえている。
決めたら、すぐさま行動に移す。
ケガのオンパレードだった。筋肉系のケガにはじまり、中足骨の骨折などもあった。ジェフリザーブス時代には右肩を手術して長期離脱に追い込まれている。
「右肩は高校時代から脱臼するクセがあって、ジェフリザーブスのときに大きなケガとなって手術をしたんですけど、どうもボルトが自分の体に合わなくて復帰するまでに時間が掛かってしまって。
日本でプロになりたいって思っていましたけど、シーズンも半分くらい終わっていたし、可能性があるなら日本よりも10月からシーズンが開幕するオーストラリアかなって」
決めたら、すぐさま行動に移すのが松本の流儀だ。
2012~13年シーズン、アンジェ・ポステコグルー監督(現在は横浜F・マリノス監督)が勇退したファイナル2連覇中のブリスベン・ロアーに加入。バックアップメンバーではあったものの、後任監督は評価してくれていたという。
しかし成績不振で解任されると外国籍選手枠の問題で弾き出されてしまう。
ダビド・ビジャとも交流を持つ。
今度はオーストラリアからニュージーランドへ。
クラブワールドカップ(CWC)出場が彼の新たな目標となり、'14年にはニュージーランドのオークランド・シティに入団して初めてプロ契約を結ぶことになる。
しかしここでも出場機会に恵まれず、CWC出場権も取り逃がしたことで退団。その後アメリカに渡ってMLSに新加入するニューヨーク・シティのトライアウトを受ける。ヴィッセル神戸でもプレーした元スペイン代表のダビド・ビジャとも交流を持ち、合格はできなかったが彼のなかで「世界が広がった」という。
「僕がチームを離れた2週間後に、ピルロやランパードがやってくるんです。もう少し粘っていたら彼らとも一緒にサッカーができたと思うと、ちょっと残念ですよね(笑)。ニューヨークの選手とは今も連絡を取ったりしています」