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熟練の手綱裁きは未だ衰えず。
ベテラン内田博幸の原体験とは。
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph bySatoshi Hiramatsu
posted2020/07/10 20:00
6月にはダイワキャグニーでエプソムC(GIII)を制するなど、その技術は健在だ。(2019年撮影)
ドラールオウカンという牝馬の思い出。
そんな流れで頼まれたのがドラールオウカンという牝馬だった。
ロジータ記念で内田騎手は自身初の重賞制覇。その後、東京記念でも優勝した。
しかし、好事魔多し。大目標とした東京大賞典を目前にして内田騎手は騎乗停止処分となり、乗れなくなってしまう。そして、乗り替わりとなった騎手がこの大一番を見事に優勝した。以前、内田騎手に当時の話を伺った際、彼は次のように答えていた。
「もちろん僕が乗りたかったけど、乗り替わりで見事に優勝した堀千亜樹さんの"さすが!"と思わせる手綱捌きを見たら『果たして僕のままで勝てたのかな?』という気持ちになりました」
これを機に内田騎手は「尚更、騎乗技術を磨かないとダメだ」と考えるようになったという。
武豊を抑えてJRAリーディングに。
その後、彼がトップジョッキーになるまでにそれほど時間は要さなかった。南関東のリーディングを獲得すると、大井でもその座を獲得。’05年には496勝(中央含む)を挙げると、翌’06年は524勝。日本人ジョッキーの年間最多勝記録を樹立してみせた。
また、’07年にはピンクカメオに騎乗してNHKマイルCで1着。地方所属のままJRAのGIを初制覇した。
そして、翌'08年には満を持してJRA入り。その年にいきなりエイシンデピュティで宝塚記念(GI)を制し、オウケンブルースリでは菊花賞(GI)を優勝。更に翌’09年にはサクセスブロッケンでのフェブラリーS(GI)など、年間146勝。それまで7年連続でJRAリーディングの座を独走していた武豊騎手を抑え、初のJRAリーディングの座にも輝いた。
その後も’10年にはエイシンフラッシュで日本ダービーを勝ち、’12年からコンビを組んだゴールドシップでも皐月賞や有馬記念などGIを4勝。これまでJRAのGIでは計12勝を挙げている。