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武豊に聞く。ディープインパクトは
サイレンススズカを差せるのか。
posted2020/06/27 11:50
text by
片山良三Ryozo Katayama
photograph by
Keiji Ishikawa(L&in the article),Takuya Sugiyama(R)
武豊は、この時期のサイレンススズカをまったく別の視点から見ていた。
1997年2月1日、サイレンススズカがギリギリでクラシックに間に合うかどうかのタイミングで新馬戦に出てきたとき、彼は藤澤和雄厩合のプレミアートというサンデーサイレンス産駒の騎乗を先に引き受けてしまっていた。武は、「失敗だった」と悔やんでいた。
「橋田先生のところからデビューする新馬が相当に走るらしいという噂が伝わってきたからです。空けておけば依頼がきたかもしれないのに……」
「あの馬に皐月賞もダービーも全部持って行かれる」
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サイレンススズカが1番人気、プレミアートが3番人気だったが、結果は、「橋田厩舎の評判馬」に1.8秒も離された5着。このときの心境を正直にこう告白した。
「あの馬に皐月賞もダービーも全部持って行かれる。痛い馬を逃がしたと思った」
ところが、次に対戦した弥生賞は、彼が騎乗したランニングゲイルがうまく立ち回って優勝した。最も気になっていたサイレンススズカは、ゲートでのアクシデントがあって、競馬になっていなかった。
このときは、「これで皐月賞には出てこないんだな」と冷静に見ているだけだった。この時点では武豊騎手とサイレンススズカの間につながりはなにもない。敵、それも大一番でライバルになりそうな馬と見ていただけだ。
「あの後、五百万を楽勝して、プリンシパルSも勝って、ダービーに行ったんですよね。上村(騎手)もうまく乗っていたし、ダービーも勝ってしまっても全然不思議じゃないと思っていました。
逃げる競馬だけじゃなく、なにかを行かせてその後ろから攻める競馬もできるんだなと、フーンという気持ちで見ていたわけです」
ダービーで見せ場までの9着に終わったあと、秋は神戸新聞杯でマチカネフクキタルに差されて2着に敗退。悪い内容ではなかったが、2連敗の責任を取らされた形で、上村がその鞍上からついに滑り落ちた。