野球善哉BACK NUMBER
大谷翔平の2番手だった男が米挑戦。
花巻東の3年で小原大樹が学んだ事。
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byKyodo News
posted2020/01/16 11:30
2011年には、夏の甲子園・帝京戦にも登板している。花巻東での3年間が、小原大樹の挑戦を支えているのだ。
菊池雄星たちの活躍で岩手に野球熱が。
岩手で生まれ育った小原が野球を始めたのは小学4年生の時だった。
それまでは格闘技をやっていたが、野球が好きな祖父の影響で日本シリーズなどを見るうち、野球がやりたくなった。中学に入るまでは「4番・センター」。投手としてのコントロールが良くなかく、自信のあるバッティングでチームの勝利に貢献した。
中学に入って盛岡北リトルシニアに所属してからは主戦投手を務め、全国大会出場を果たした。そして中学3年生になった'09年春、地元の花巻東がセンバツ大会で準優勝、夏はベスト4に進出する大躍進を目の当たりにし、小原の野球熱はさらに上がった。
菊池雄星らを擁して岩手じゅうを歓喜に包んだ花巻東の勇姿は、小原ら岩手県の野球少年たちに希望を持たせた。
「岩手県民でもやれる」
「彼らが果たせなかった岩手県勢・日本一を取るのは俺たちだ」
そんな夢を持って花巻東の門を叩いたのが、大谷であり、小原だった。
「中学3年のとき、雄星さんらが甲子園でフィーバーを起こして、僕らにとって、あれが人生を変えました。花巻東に行こう。そして、日本一になろうって。
翔平のことも小学生の時から知っていました。翔平が花巻東に来ることを知ったのは遅かったんですけど、それ以外のメンバーもかなり有名な選手が揃っていた。この中に翔平まで加われば、心強いなと思っていました」
大谷がいても、エースを狙っていた。
大谷がチームメイトになっても「エースの座を狙った」と小原はいう。1年生にして「160キロを出す」と目標を掲げる相手に敵う可能性は低かったが、「エースは大谷だとしても、勝つのは小原」と言われる日を夢見て、徹底して勝つピッチングを心がけた。
佐々木監督が投手を多く揃えて連戦を戦う戦略を目指していたことも追い風となり、小原ら控え投手は十分すぎるほどの登板機会を与えられた。その経験が、今も彼の財産となっている。
「大会前に組み合わせが決まると、監督さんと投手陣の面談がありました。どういう展開になったら誰が先発に行くとか、大谷がどの日で、僕はいつ投げるのかとか。大谷がエースであることは揺るがないんですけど、いかに先を見据えて勝利に貢献できるかを考えていましたね」