サッカーの尻尾BACK NUMBER
14歳で学校を辞めてサッカー漬け。
サラーの原点をエジプトでたどる。
text by
豊福晋Shin Toyofuku
photograph byDaisuke Nakashima
posted2019/09/06 11:40
首都カイロや第2の都市アレクサンドリアの街中では、いたるところでサラーの顔が目に飛び込んでくる。
息子のサッカーの才能にかけた父親。
サラーはやがてカイロのクラブ、アラブ・コントラクターズに通うことになる。バスを5回乗り換え、時には往復で10時間にもなる旅が日課になった。貧困の中ではできなかったことだろう。
ジャスミンマンの信念と理解は大きかった。
「学校にも行っていない。行ったのは中学の途中まで。父親が『この子の才能にかけたい』といってね。彼は可能性にかけたんだ。実際、父親本人も、叔父もサッカーをやっていた。たしかな血統はあった」
13、4歳の時点で、子に学業を放棄させることのできる勇気を持つ親は少ない。周囲に息子の能力を賛辞されようとも、保守的になるのが普通だ。社会的にみても日本や欧州では不可能だろう。しかしエジプトの田舎ではそれが可能だった。
「毎日がサッカーのための人生。バスで10時間、週6日だ。他に何かをする余裕なんてないさ。彼自身、普通の若者の青春を楽しみたいなんて欲もなかったと思うが。10代の頃から、彼はサッカーを貫いたんだ」
エジプトの片田舎に生まれた偶然、血筋、そして両親の理解。昔のサラーを話す時の村長は嬉しそうだ。
守備を要求しなかった指導者。
個人としての能力は幼少期から際立っていたという。故郷でサラーを指導したファラグ・エル・サイディが強調するのは、そのスピードと技術に専念させた点だ。
「練習でも、ドリブルばかりしていた。全員抜いてやろうなんてプレーを見せることもあった。別にそんなプレーをしても誰も怒ったりはしなかった。彼には特別なものがあったから。体は小さかったが、自然なトラップにドリブル。能力は明らかだった。そんな選手に、守備をさせたって仕方がないだろう?」
もともと恵まれていた少年の能力を、指導者たちはうまく引き伸ばした。
昔は自分がゴールを決められないと、よく泣いていたがね、とコントラクターズのディレクター、サイード・シシニはいう。施設にはサラーの写真が大きく飾ってある。その目の前で、エジプト中からやってきたたくさんの少年たちがボールを蹴っていた。