松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造応援! パラカヌー瀬立モニカが
描く、どこまでも前向きな未来。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/02/05 07:00
前列の左から、瀬立モニカさん、西明美コーチ。背後は母親の瀬立キヌ子さん。
松岡「旧中川の名称をモニカリバーに」
松岡さんが時計を見る。気づけばもう、2時間近くが経っていて、2人はともに驚き、笑顔を見せた。腰は痛くない? 日焼けは大丈夫ですか、と互いを思いやったり。波長がシンクロし、対談はすっかり打ち解けた雰囲気に……。
松岡「ここはほんと、気持ちの良い場所だね」
瀬立「まさにホームグラウンドです。そうそう、ここで練習していると上にかかっている橋の上から『がんばって!』と声をかけてくださるんです。犬を散歩させているおばあちゃんからお団子をもらったりして。私、和菓子がすごく好きなんです(笑)。
水泳みたいに屋内プールだったり、壁に囲まれたところではなくて、ここはまわりのみなさんとの距離もバリアフリーな感じなので、いつでも温かな声援に支えられている気がします」
松岡「いつかこの旧中川の名称を、モニカリバーにしたいね」
瀬立「……その発想はなかった(笑)」
松岡「モニカさんの人生はまだまだこれからだけど、振り返るとこれまでの半生は……」
瀬立「濃かったです」
松岡「濃い、と思える人生って、ありそうでなかなかないことです」
瀬立「見方を変えれば、ケガをしたタイミングも良いのかもしれない、と思っています。ちょうど2020年の東京開催が決まって、それも生まれ育った江東区にカヌー競技の会場ができて、22~23歳という一番良い年齢で自国開催のパラリンピックを迎えられるんです。本当に与えられたチャンスだと思って、それをしっかりと掴んで、もっと濃い人生にしていきたいです」
母「まず、どうしてうちの子がって」
松岡「お母さんも嬉しいんじゃないですか。こういう捉え方をしてくれて」
キヌ子さん「どんどん自立して、本人が前向きに人生を歩んで行ってくれることが私の唯一の願いです」
松岡「怪我をした頃は、すぐモニカさんの怪我を受け入れられましたか?」
キヌ子さん「まず、どうしてうちの子がって、そう思いました。入院した頃は私もフルタイムで仕事をしていて、勤務先の病院、家、モニカの入院している病院、その3箇所を、三角形を描くように、未来が見えないままにぐるぐる回っていました。その頃は毎晩泣いてましたね。
なんでモニカなの。何がいけなかったの、と最初の方は自問自答の繰り返しでした。
でも、私が泣いてちゃいけない。なんとかモニカを自立させないとって。実は、2020年が東京に決まったのは、モニカが入院しているときだったんですよ」
瀬立「そう。決まった瞬間は、ベッドの上で見ました。トウキョウ!って、テレビで」
キヌ子さん「すぐにその場で言ったんです。健常ではオリンピックにいけなかったから、パラリンピックで目指せば良いじゃないって」
松岡「それを聞いて、どう思った」
瀬立「『何言ってるのよ!』って、ぬいぐるみを投げつけました」
松岡「どうして。東京に来たわけですよ」
瀬立「当時はまだスポーツをやること自体が考えられなかったですし、まずは生きることで精一杯だったので」
キヌ子さん「『出て行って!』って。怒られました」
松岡「今だから笑えるけど、その時は生きるのに精一杯だったんだね。そこからどうやって気持ちが変わっていったんですか」
瀬立「入院しているときはまったく心は動かなかったし、退院してからしばらく経っても、気持ちは塞いだままだったんです。でも、ちょっと生活に余裕ができてきた時にふと、やってみても良いかなって」