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来季F1で跳ね馬を駆る逸材、
C・ルクレールの「スーパー」な才能。
text by
今宮雅子Masako Imamiya
photograph byNoriaki Mitsuhashi
posted2018/12/28 17:00
モナコ出身、貴公子然としたルックスの内面には、成熟した自信と謙虚さが秘められている。
亡きジュール・ビアンキに捧げる。
「ジュールのことを話してもいいかな」と、少し表情を変えて彼は話し始めた。'14年の日本GPで重傷を負ったビアンキは、意識を取り戻さないまま、翌'15年の7月17日に天国へ旅立った。非力なマルシア・チームで残した成績はモナコGPの9位入賞が最高でも、実力は高く評価され、将来のフェラーリ入りが期待されていたドライバーだ。
同世代の良きライバル、ピエール・ガスリーは鈴鹿に来ると必ず事故現場に花を手向ける。「ジュールは最高の先輩であり、僕らはみんな彼の背中を見て育ったんだ」。
ルクレールにとっても8歳年長のビアンキは素晴らしいロールモデルだった。そしてそれ以前に「家族」だった。
生まれ育ったモナコでの思い出。
モナコに生まれ育ったルクレールは、モナコ国籍を有する。自宅はモナコGPのスタートラインのすぐそば。1コーナーの出口側にある友達の家のバルコニーで遊びながら、レースを見ていた幼い記憶がある。初めてゴーカートに乗ったのは3歳半のとき。場所はビアンキの父フィリップが南仏ブリニョルに所有するカートコースだった。
「僕の父とフィリップは親友だったから。そしてジュールと僕の兄、ジュールの弟と僕も大親友だった。僕らはいつも一緒にいて、完全にひとつの家族だった」
初めてのカートを体験した後、帰りのクルマのなかで、父に「パパ、僕はもっと走りたい。そうすれば僕はもっと幸せになれる」と告げたことを覚えている。漠然とではあったけれど、その瞬間から"将来の仕事にしたい"と、レーシングドライバーになることを夢見てきた。8歳年長のジュールは良き先輩。どんな相談にものってくれる兄のような存在だった。
'10年末、13歳のシャルルがジュールに打ち明けたのは、資金が足りず、翌年はカートを続けられないという悩みだった。モナコと言っても、桁外れに裕福なのはモナコ人ではなく、他国の国籍を有するレジデントだ。シャルルはすでにスポンサーを得ていたものの、父エルベの負担も大きく、より費用がかかる上のクラスに進んでレースを続けることは不可能になっていた。