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来季F1で跳ね馬を駆る逸材、
C・ルクレールの「スーパー」な才能。
text by
今宮雅子Masako Imamiya
photograph byNoriaki Mitsuhashi
posted2018/12/28 17:00
モナコ出身、貴公子然としたルックスの内面には、成熟した自信と謙虚さが秘められている。
「ジュールがいなかったら僕はここにいない」
話を聞いたジュールは、自身のマネージャーであるニコラ・トッドに連絡。シャルルと会ったトッドは、ジュール同様、自らマネージメントを引き受ける約束をした。
「それ以降、僕は経済的な負担なくレースを続けることができるようになった。すべてニコラが面倒を見てくれたんだ。ジュールがいなかったら、僕はここにはいないよ。彼は僕の後見人でもあったんだ……」
今年の日本GP、鈴鹿を訪れたルクレールはすぐに'14年の事故現場を訪れた。
「ものすごくエモーショナルだし、辛い。時間が経っても、喪失感や痛みは永遠に消えないと思う。僕らはその喪失感に慣れ、喪失感と一緒に生きていくしかないんだ」
キャリアにおいて困難を感じたのは「2回だけ」とルクレールは言う。ひとつはビアンキとの別れ。もうひとつは最愛の父エルベとの別れ――F2で走っていた'17年、アゼルバイジャンのレースの直前、闘病中だった父もまたビアンキの元へと旅立ってしまった。ルクレールはまだ19歳だった。
「父は……まず、僕のパパだ。そしていちばん最初から僕をサポートし、ずっと一緒にいて、僕がいま居る場所に導いてくれた存在だ」
人より楽に生きてきたわけではない。あまりに大きな喪失に比べれば「他には特別に辛いことはなかった」と感じるのだ。
「僕が走れているのは、父とジュールのおかげだ。僕はジュールのおかげでF1に乗り、彼のために走り続ける。彼の家族は、僕を通してジュールと一緒に生きていくことができるから……僕がフェラーリに乗ることをとても誇りに感じてくれている」
若くして人生で大事なものを悟った。
ビアンキのことを好んで話すのは「絶対に、誰にも、ジュールのことを忘れて欲しくはないからだ」と言う。
ビアンキを亡くした'15年には、ヨーロッパF3でベストルーキーに輝いた。父を失った'17年には、圧倒的な成績でF2のタイトルを獲得した――"かなり前から"すべてを振り払って自身の仕事とドライビングに集中できるドライバーである理由は、きっと、若くして"人生においていちばん大切なもの"を悟ったからだ。