松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造が訊く! 吉田信一(パラ卓球)は
なぜ人生を「ラッキー」と言えるのか?
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2018/12/24 08:00
写真左は、吉田信一選手を支えている小川真由美コーチ。東京パラリンピックでは、みんなの協力でメダルを狙う!
果物ナイフなどが無い病室。
後でわかることだが、痛みがないのは神経を損傷したからだった。運ばれた病院には専門医が不在で、圧迫を防ぐために緊急的にベルトで患部を吊された。現代の医学では背骨の神経手術は損傷後なるべく速やかに行うのが常識だが、吉田さんは3日以上寝かされたままだった。
吉田「結局、ベルトで吊されたところが褥瘡(じょくそう/床ずれの一種)になっちゃって、熱が出たから1カ月は手術ができないと。
神経は切れたら離れていくので、手術ができるようになった頃にはもう手遅れ。
『この先はずっと車椅子生活になる』と告げられました。
その時は病院の個室だったんですけど、果物ナイフとか危ないものは一切周りに置かれていませんでしたね。ショックを受けて色々する人がいるからなんですね。私も『もう歩けない、車椅子だよ』と言われたときはショックでしたけど、よくテレビドラマで見るような『どうして私だけが!』とか、それほど取り乱す感じではなかったです。
この先自分はどうやって生活していけばいいのかなあ……。先のことはもちろん考えましたが、たとえこんな体になっても、友だちは友だちのままだよねって、甘い考えもあったりして」
松岡「……ひとつのアクシデントで、しかも向こうが悪いのに、なんで自分だけがって、普通はそうなると思うんですよ」
吉田「そうですね。でも、自分もバイクに乗っていたんです。今でも乗りたいなって思うこと、あるんですけど、相手だってやりたくてやったわけじゃないし……。ただ、相手の顔を私は一度も見てません。ぜんぶ保険屋さんに任せるかたちにして、私とは会わずじまいでした」
松岡「謝りにも来なかったんですか」
吉田「来ていたとしても多分、親父が部屋に入れなかったと思います。そこは正直、わからない。ただ私は一度も会いませんでした」
松岡「会いたくないですか」
吉田「もし会えたのなら……。相手の気持ちもわかるので。こうなってしまったことはしょうがないので、その後の補償だけはちゃんとして下さい、ですんだ話だと思うんです。だって、自分が逆の立場だとしても、それしかできませんからね」
松岡「そんな冷静でいられますか? そんな冷静な人っていないと思います」
吉田「でも、いろいろと考えてもしかたがない。考えている時間がもったいないです」
松岡「それでも考えてしまうのが普通ですよね」
吉田「かもしれないです」
松岡「悔しくてしょうがない。どうして俺だけが、って……」
吉田「どうして自分だったのか。あの時は、いずれ治るだろうという思いも、ちょっとはあったんです。これだけ医学が発達している世の中なので、何年も先のことはわからないと」