松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER

修造が訊く! 吉田信一(パラ卓球)は
なぜ人生を「ラッキー」と言えるのか?

posted2018/12/24 08:00

 
修造が訊く! 吉田信一(パラ卓球)はなぜ人生を「ラッキー」と言えるのか?<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

写真左は、吉田信一選手を支えている小川真由美コーチ。東京パラリンピックでは、みんなの協力でメダルを狙う!

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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Yuki Suenaga

 松岡修造が、パラアスリートと真剣に向き合い、その人生を深く掘り下げていく「松岡修造のパラアスリート一直線!」。車椅子卓球の吉田信一さんは、通算14度の日本一に輝き、リオパラリンピックにも出場したパラ卓球界の第一人者。
 そもそも彼は、なぜ障害を負ってしまったのか。そして今、振り返って自身の境遇に何を感じているのだろうか――。

松岡「ここまでずいぶんとお話を伺いましたが、障害のことについても聞かせて下さい。どんな壁があって、どう乗り越えてきたのか。バイクの事故だったんですよね」

吉田「はい。自分はバイクで、相手は乗用車です。明日から高校3年生になる、という日だったのを覚えています」

松岡「免許は持っていたんですか」

吉田「もちろん! 実は学校的にはダメだったけど、担任の先生が理解があって、実は免許自体は担任の先生に預けていたんです。でも……免許って本人が申請すれば再発行ができるんですよ」

松岡「……ようするに、ワルだったんですね」

吉田「ワルでした。いや、そういうところは賢いのか(笑)。で、隠れてバイクに乗ってました」

松岡「なんでそんなに乗りたかったんですか」

吉田「カッコつけて言えば、風になりたかった(笑)。最初は原付の免許を取ると親父に言ったんですよ。そしたら『そんな小っちゃいのに乗るな』って。母親も、免許を取ったらすぐに新車のバイクを僕に預けてくれたんです。すごく嬉しかったな」

松岡「理解がある」

吉田「いや……同情もあったのかもしれませんね。

 実は私が5歳のときに親父と生みの母親が離婚しています。母親は病弱だったこともあって郷里の秋田へ帰って、僕は親父と暮らしていたんです。その後、親父が再婚したんですが、その2番目のお母さんが『ご飯はいつも正座して食べなさい』『自分の茶碗は自分で洗いなさい』と厳しかったんです。自分の子どもができたら私に辛く当たるという、よくある話ですが、それでしたね。

 この辺の傷(傷あとが残っている手の甲を示す)も、自分がよけたところに包丁が飛んで来たときのもので、今だとけっこう問題になりそうですね。

 で、私にバイクを買ってくれた今の母親は、実は3番目なんです。彼女はとにかく私に優しかった。親父、すごく若い奥さんをもらったから、私と歳が6つしか違わないんです」

吉田信一(よしだしんいち)

1965年12月13日福島県生まれ。高校時代にバイク事故で車椅子生活となる。1994年に車椅子卓球を始め、6年後に上京、これまで車椅子卓球のクラス3で通算14度の日本一に輝く(現在8連覇中)。2016年リオ・パラリンピックに出場。2020東京パラリンピックへの出場を目指し、日々練習に励んでいる。NICT(国立研究開発法人情報通信研究機構)勤務。

【次ページ】 「(事故の瞬間は)全部憶えてます」

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