ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
嵐のように生き、刃物のように闘う。
ダイナマイト・キッドよ、永遠に!
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2018/12/07 17:00
タイガーマスクと過酷な戦いを繰り広げたキッド。代償は大きかったが、リングに残したものも多かった。
あまりにも刹那的なキッドの生き方。
'83年のタイガーマスク引退後、ライバルを失ったキッドは、全日本プロレス参戦を経て、'85年にアメリカ最大のメジャー団体WWFと契約する。身体の小さなキッドの場合、大きなレスラーに対抗するために身体を大きくする必要があり、また人の何倍も受け身を取るため、受け身を楽にするための筋肉も必要だった。そのため、ステロイドの過剰摂取が始まり、さらに鎮痛剤との併用が日常化してしまったのだ。
その上で、全米を飛び回るハードスケジュールの中で過激な試合を続けた結果、'86年12月、キッドの身体はついに悲鳴をあげた。試合中のアクシデントにより、第4第5椎間板断裂の重傷を負い、戦線離脱。医師からは引退勧告を受けることとなったのだ。
それでもキッドは、まだ麻痺が残る中、痛み止めを打ちながらリングに復帰。そしてステロイドを打つことで、リングに向かう気持ちを奮い立たせた。もはや、キッドはステロイドなしではいられない身体になっていたのだ。
当時の気持ちをキッドは、自伝で次のように語っている。
「ケガをしていようが、大観衆が俺の名前を叫んでいれば、その期待には何としても応えなければならない。身体が動こうが動くまいが、やるしかない」
あまりにも刹那的であるが、それがキッドの生き方だった。
プロレスも家族も33歳で失って。
ステロイドはキッドの肉体だけでなく精神をも蝕んだ。“理不尽な怒り”という副作用によって、私生活でも極めて攻撃的な人間になってしまったのだ。そしてバックステージでのケンカなど、トラブルを日常的に起こすようになる。そして椎間板断裂の大ケガ以降、かつてのような激しい試合ができなくなり、トラブルも絶えなかったキッドは、'88年に解雇同然のケンカ別れでWWFを離脱する。
その後、全日本プロレスのリングに復帰し、日本とカナダを往復する生活を送るようになるが、キッドの試練はさらに続いた。ステロイドの副作用による性格の激変に耐えられなくなった妻・ミシェルに見切りをつけられたのだ。
ある日、キッドが全日本のツアーを終えてカナダの自宅に帰ると、そこはもぬけの殻で、テーブルの上には祖国イギリスへの片道航空券だけが残されていたという。キッドはカナダを永久に去り、離婚が成立すると、すべての財産を妻と3人の子供たちに譲り渡した。
またWWF離脱後、体調は悪化の一途を辿り、'91年12月6日、全日本の日本武道館大会で引退を発表する。この時33歳。金と名誉、さらには天職であるプロレスと家族まで失ったキッド。残ったのは、身体中の痛みだけだった。