ロシアW杯PRESSBACK NUMBER
1人で戦い続け、また敗れたメッシ。
天才が抱えた責任と苦悩の過大さ。
text by
藤坂ガルシア千鶴Chizuru de Garcia
photograph byGetty Images
posted2018/07/24 08:00
ナイジェリア戦での右足シュートはキャリアの中に残るファインゴールだ。それでもメッシはまたW杯に手が届かなかった。
「バルサだけでゴールを決める非国民」
ところがペケルマンは、グロンドーナ会長の圧力とそこから生じる摩擦に耐えられず、ドイツ大会後に代表監督の座を退いた。さらに2007年にはトカーリを含むスタッフ一同が不利な条件をつきつけられて辞任。AFAは、それまで13年間にわたり結果を伴いながら人材育成も進めてきたペケルマングループと、完全に縁を切ったのである。
ここからメッシの苦悩が始まった。
ドイツ大会以後、アルゼンチン代表は今日に至るまで、攻守のバランスが大きく崩れた不安定なチームと化し、攻撃の主軸となるメッシだけに重圧がかかる状態が続いている。
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2008年10月にアルゼンチン代表監督に就いたディエゴ・マラドーナは、21歳になったメッシに背番号10を与えることにより、チームを背負う「選ばれし者」としての自覚を芽生えさせた。
ところが、それ以降まるで背番号10が重荷となったかのように、メッシは代表で得点を決めることができなくなってしまう……。2009年3月のW杯予選ベネズエラ戦以降、ゴールを奪ったのは1度だけ。その状況で2010年の南アフリカW杯を迎え、準々決勝でドイツに敗れるまでの全5試合に出場して無得点。アルゼンチン国内においては、メディアや一般人から「バルセロナだけでゴールを決める非国民」と酷評される結果となった。
ブラジルW杯では突然の守備重視。
その後、2014年W杯予選が始まる直前、アレハンドロ・サベージャ監督はメッシを代表のキャプテンに任命した。
アルゼンチン国民から半信半疑の厳しい視線が注がれる中、キャプテンマークを腕に巻いたメッシは2011年10月のチリ戦で久々となる代表でのゴールを決めた。その後も、窮地でチームを救う活躍を見せ、予選が終わる頃には母国におけるメッシの印象も劇的に変化した。もはやメッシを批判するのは、売名目的でアンチ派を貫こうとするごく一部のメディアだけとなっていた。
そして迎えた2014年のブラジルW杯。アルゼンチンは守備の脆さを攻撃でカバーするスタイルと、メッシによる起死回生のゴールでグループステージ突破を決めると、突然、守備主体の受身型に徹して着実に勝ち進む策をとった。
メッシの輝きが失われた状態で決勝まで進んだが、延長戦の末に3大会連続でドイツに敗れて準優勝に終わった。