ロシアW杯PRESSBACK NUMBER
1人で戦い続け、また敗れたメッシ。
天才が抱えた責任と苦悩の過大さ。
posted2018/07/24 08:00
text by
藤坂ガルシア千鶴Chizuru de Garcia
photograph by
Getty Images
ロシアW杯、フランスに敗れてベスト8入りできず、無言のままスタジアムを後にしたリオネル・メッシ――。
前回大会準優勝の悔しさを晴らすためにも、そして31歳という年齢を考えても、自ら「優勝するなら今しかない」と語っていたロシア大会は、自身のキャリアにとって最悪のW杯になってしまった。
最悪だったのは決勝トーナメント1回戦敗退という結果だけではない。アイデアと権力、統率力を著しく欠いた監督に対する信頼が失われて崩壊したチームのキャプテンとして、悩み、かつてないほどの重圧に苦しめられた。
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グループステージ突破を決めた後、「いい時も悪い時もアルゼンチン人であることほど素敵なことはない」と言い切った。母国の代表を選んだことに後悔はない。
しかし、4度目のW杯でまたしても世界一への道が閉ざされた瞬間、メッシの脳裏には一体何が浮かんだのだろう。もしかしたら、初めてアルゼンチン代表のユニホームに袖を通した頃の思い出だったかもしれない。
16歳のメッシと恩師ぺケルマン。
「君はアルゼンチン人なんだってね。私のことを知っているかい?」
「もちろん知ってますよ! ペケルマンですよね」
今から15年前の2003年、当時スペインのクラブ、レガネスでスポーツディレクターを務めていたホセ・ペケルマンは、すでにバルセロナで話題になっていた16歳のメッシに話しかけ、U-20代表監督を務めていたウーゴ・トカーリに彼を招集させることを約束した。
トカーリは、ペケルマンのアシスタントとして長年アルゼンチンユース代表を指導した仲間で、2人はこの天才児を一刻も早くアルゼンチン代表のメンバーにするべく、AFA(アルゼンチンサッカー協会)の会長だったフリオ・グロンドーナに懇願し、強引に親善試合をセッティングすることに成功した。
同年6月29日、アルゼンチンU-20代表がパラグアイU-20代表相手に8-0と圧勝した試合で、メッシは初めて母国のユニホームを着てプレーしたのである。