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中田英寿を平塚に連れてきた男。
甲府の名スカウトが語る目利き術。

posted2018/07/24 17:30

 
中田英寿を平塚に連れてきた男。甲府の名スカウトが語る目利き術。<Number Web> photograph by Masayuki Sugizono

来季加入内定の中山陸(左)に声を掛ける森淳氏。プロビンチアの甲府にとって、敏腕スカウトの存在は何よりも大きい。

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杉園昌之

杉園昌之Masayuki Sugizono

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Masayuki Sugizono

 始まりは中田英寿だった。

「右も左も分からないまま、スカウトになって、中田と松田直樹(故人)を取ればいいからと言われてね」

 ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)、ベガルタ仙台を経て、現在はヴァンフォーレ甲府のスカウトを務める森淳氏は、柔和な笑顔を浮かべながら24年前のことを振り返る。

 日本リーグのフジタ工業(ベルマーレ平塚の前身)で活躍し、元日本代表でもある森氏は29歳で現役を退き、1994年にJリーグに参入したばかりの平塚のクラブスタッフとなった。当初はコーチを希望していたものの、すでに席は埋まっており、サテライトチームの主務に。開幕前の高知県・春野キャンプから戻ると、「やっぱり、スカウトが必要になった」のひと言で転属した。

一番手のオファーを出した新米。

 新米のスカウトは、言われるがままに働いた。'94年6月、笠松運動公園サブグラウンド脇の芝生に腰を下ろし、韮崎高vs.帝京高の試合を視察。無骨な猛者3人に囲まれても、何食わぬ顔ですっとかわしていく中田のプレーに舌を巻いた。そして試合後、韮崎高の田原一孝部長、新藤道也監督に獲得の意思を伝えた。

「中田くんがほしいです」

 Jリーグの12クラブ中11クラブが競合するなか、一番手のオファー。当時、業界には夏のインターハイの終わる8月頃までは正式オファーを出さないという暗黙のルールがあったものの、「本当に知らなかったんだよ」と苦笑する。

 結果的にそれが奏功する。中田側から海外留学、将来の海外移籍を認めるなどの条件はあったが、最後まで平塚が交渉のテーブルに残った理由の1つになった。

 結果は周知の通り。スカウト1年目から大仕事を成し遂げると、親会社のフジタ工業社長も驚いた。「まさか中田を引っ張ってくるとは思わなかった。(今後も)君がスカウトをやったほうがいい」。このひと声で、平塚でのキャリアは決まった。

【次ページ】 柳沢、俊輔にアタックも……。

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