サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
岩本輝雄が語る代表デビュー戦秘話
comment by
岩本輝雄Teruo Iwamoto
photograph byAFLO
posted2018/06/08 10:00
「10番」を見て部屋を間違ったのかと。
それでも光栄なことに代表では毎試合、先発で使ってくれていました。続くガーナ代表とのアシックスカップ(7月)では初ゴールを決めることができました。そして10月のアジア大会では背番号「10」を任されることになりました。
鹿島合宿で自分の部屋に10番のユニホームが置いてあったので、部屋を間違ったと思ったんです。ノボリさん(澤登正朗)だと思っていたし、自分の番号ではないっていう感覚でしたね。それでも期待してもらっている以上、つけるしかなかった。
ノボリさんは一緒にプレーしていてもとにかくやりやすかった。自分が上がっていくスペースをちゃんと考えてくれていましたから。
アジア大会ではコンディションが上がっていかず、準々決勝・韓国戦もベンチからスタートしました。先発から外れても納得していましたよ、体がついていかなかったので。でもあのときの韓国は、非常に強かった。洪明甫(ホン・ミョンボ)、高正云(コ・ジョンウン)、黄善洪(ファン・ソンホン)、柳想鐵(ユ・サンチョル)……みんなが知っているような良い選手がそろっていましたよね。日本もライバル心を燃やして、みんな気持ちを1つにして戦っていました。途中から出場した僕自身、気合いも入っていましたから。しかし後半ロスタイムにPKと判定されて、2-3で敗れてしまった。この試合でファルカンさんが契約を更新されず、僕にとっても最後の代表戦になってしまいました。
1年で10年分の経験をさせてもらった。
この1994年の1年は本当に嵐のような毎日でした。10年分の経験を一気にさせてもらったような気がします。22歳の僕にはいろんな勉強にもなりました。マスコミのみなさんはいいときは褒め称えるけど、結果が出ないと一転してバッシングに変わるってことも。日本代表は凄い場所であるのと同時に怖い場所なんだなって思いました。
ただ、もう1度、代表に戻りたかった。
ベガルタ仙台時代は代表でもやれる自信がありました。代表に入るのがちょっと早すぎたのかなとは思いましたね。あと2年ぐらい後に呼んでもらえたら、と。
2002年日韓ワールドカップ決勝トーナメント1回戦のトルコ戦を、宮城スタジアムで観戦しました。三都主アレサンドロ選手が直接FKでポストに当てたじゃないですか? 僕も打ってみたかったなって思いました。三都主選手は相当なプレッシャーだったと思いますよ。でもあの場に立って、プレッシャーを感じて、決めてみたかったなって。
呼んでくれたファルカンさんには今でも感謝しかありません。振り返ってみると、日本代表のこともすべて良い思い出です。
僕は実質、代表で活動したのは半年ぐらい。凄い場所であり怖い場所でもある代表で、何年も継続してやれている選手は凄いなって心からリスペクトしています。
(構成:二宮寿朗)
岩本 輝雄いわもと てるお
1972年5月2日、神奈川県生まれ。'94年、サッカー日本代表監督にロベルト・ファルカンが就任すると、キリンカップのオーストラリア戦で日本代表デビュー。同年のアジア大会では背番号「10」を背負って出場するなど、国際Aマッチ9試合、2得点。国内6クラブを渡り歩き、'06年FIFAクラブW杯にオークランド・シティ(ニュージーランド)の一員として出場した後、現役を引退。現在はサッカー解説をはじめ幅広く活躍中。