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Bリーグ琉球・佐々宜央HCの流儀。
33歳で指導者歴15年、異色の経歴。
posted2018/03/12 17:00
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph by
B.LEAGUE
当時アメリカに住んでいた多くの子どもと同じように、佐々宜央(さっさ のりお)も赤いユニフォームを身にまとった選手たちのプレーに目を奪われていた。
佐々が生まれたのは1984年、マイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズへ入団した年。銀行員だった父親の転勤にあわせて4歳でシカゴへ渡り、12歳までアメリカで過ごした。小学校の途中でニューヨークに引っ越したが、シカゴへの憧れは変わらなかった。
1993年のNBAファイナル第6戦、ブルズの3連覇(スリーピート)を決定づけるジョン・パクソンの3Pシュートが試合終了直前に決まった瞬間には、興奮して叫んだせいで自宅の2階にあったテレビが突然映らなくなったという。その時はあわてて1階へ降り、フェニックス・サンズ戦の残り3秒を見届けた。
高校まで目立った成績は残していないが。
33歳という若さで琉球ゴールデンキングスのヘッドコーチ(HC)を務める佐々は、当時をこう振り返る。
「HCがタイムアウトを取るのを、楽しみに見ていましたね。もちろんプレーを指示するためだけに取ることはありますけど、基本的には試合の流れが相手にいきそうなときにタイムアウトを取るわけじゃないですか? バスケでは流れがすごく大事だと思っている。試合の流れをつかむ感覚は、子どもの頃から培ってきたと思います」
小学6年生で日本に帰国し、成蹊中学へ。東京都大会で2位になり、ジュニアオールスターといわれる都選抜チームに選ばれたこともある。そのチームには後に日本代表で活躍し、現在は京都ハンナリーズでプレーする岡田優介もいた。
この頃、佐々はプレーヤーとしてアメリカの大学に進学して……という夢を描いていた。だが成蹊高校での最高成績は、東京都ベスト8。さすがにアメリカの大学で活躍する姿は描けなかった。
進学したのは東海大学だった。2000年に陸川章がAチームのヘッドコーチ(HC)に就任し以降めきめきと力をつけ、今ではBリーグの選手をもっとも多く輩出している大学となった。ここで佐々のバスケ人生は大きな転機を迎える。