来た、見た、書いたBACK NUMBER
スターウォーズ顔負けのペレ一族。
父の夢、そして長男のダークサイド。
text by
下薗昌記Masaki Shimozono
photograph byAFLO
posted2017/12/15 07:00
サッカー界のレジェンドであるペレだが、私生活は波乱万丈。彼のフォースは後世にも受け継がれていくのだろうか。
父はストライカー、そしてペレは階段を上り始める。
当時9歳だった幼きペレは、サッカー選手だった父の影響で幼い頃からボールを蹴り続けて来た。父から受け継いだ才能は本物だった。
1917年生まれのドンジーニョは当時としては長身の183cmで、名門アトレチコ・ミネイロやフルミネンセなどでも活躍したストライカー。そんな父の後を追うようにプロの世界に飛び込んだペレは15歳で名門サントスでプロデビューし、その才能を開花させる。
プロ2年目の1957年には16歳9カ月でブラジル代表デビューを飾り、早くも初ゴールを決めたペレ。翌1958年のW杯スウェーデン大会には、17歳でメンバー入りした。準々決勝で大会史上最年少となる17歳と239日でW杯初得点を決めると、準決勝のフランス戦ではハットトリックを達成。大会6得点の大活躍で、ブラジルを初の世界一に導いた。
果たされた8年前の約束――。決勝戦を終えた17歳の少年は、先輩たちの肩にもたれかかりながら、感涙にむせんだのだ。
その後、1962年のチリ大会と1970年のメキシコ大会でも世界一に輝き、名実ともにブラジルをサッカー王国へと押し上げた天才、ペレ。20回を数えるW杯の歴史において、3度の優勝を経験しているのはペレのみである。
ペレの長男はダークサイドに堕ち麻薬密売に手を出す。
三流の脚本家でも書かないような親子のサクセスストーリーだったが、光には常に影がつきまとう。
ペレの長男、エジーニョもまたナシメント家のDNAを受け継ぐ男だったが、ストライカーだった祖父や父とは対照的に、選んだポジションはGK。サントスでプロデビューし、父や祖父に比べれば平凡な選手ではあったが1995年にはブラジル全国選手権の準優勝にレギュラーとして貢献していた。
そんなエジーニョが「暗黒面」に転落する。引退後は指導者の道に進んでいたペレの息子は、2005年に麻薬密売で半年間服役し、今年2月にもマネーロンダリングや麻薬密売で実刑が確定し、13年服役することが決まっている。
ヘディングシュートが得意だったドンジーニョにヘディングの指導を受けたこともあるペレは「唯一、私が破れなかった記録は1試合で5回のヘディングシュートを決めた父の記録だ」とプレーヤーとしての父を賞賛したが、エジーニョが祖父や父とは真逆のポジションを選んだのも、どこか示唆的にさえ思えるのだ。
偉大すぎる父とは対照的な人生を送っているエジーニョは、ナシメント家における負の一面だった。