サムライブルーの原材料BACK NUMBER
J優勝のために一度は断った五輪行き。
興梠慎三、全ては浦和のために。
posted2016/07/19 18:00
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Tsutomu Takasu
世界の舞台には、縁がなかった。
2008年の北京五輪でも、2010年の南アフリカW杯でも興梠慎三は大枠のメンバーに入っていながらも、最終的に選ばれることはなかった。
8年前に北京五輪の本大会メンバーから落選した際、「入らないとは思っていましたからね……。だけど、絶対にこの悔しさをバネにして、A代表を目指していかないと」と、気丈に語った姿を今でも覚えている。
そして同じ北京五輪世代の岡崎慎司とともに、2008年10月のUAE戦でA代表デビューを飾る。岡田ジャパンになって継続的に招集されたものの、これまたW杯には届かなかった。
だが月日を経て、リオデジャネイロ五輪に臨むU-23代表の手倉森誠監督からオーバーエイジのオファーを受けるとは思いも寄らなかったはずである。
世界の舞台は「一度は経験したかった」。
縁がなかった世界の舞台に立つという意味。
大宮アルディージャとの“埼玉ダービー”を終えた彼にそのことを尋ねると、いつもの柔らかい表情のまま言った。
「感慨みたいなものなんて別に、まったくないですよ。でもそういうふうに落選してきた身なので、一度は(世界の舞台を)経験したかったというのはあります。オーバーエイジという特別な形で選ばれましたけど、それはそれでやり甲斐があると思っているんで。自分を成長させる意味でも、行くことに決めたんです」
一度は経験したかった――。
「落選してきた身」だからこそ、その思いは相当に強かったのだと推察できる。しかし彼は、手倉森からのオファーをすぐに受けるどころか一度は断っている。手が届きそうで届かなかったチャンスが、今そこに、目の前に転がっているというのに。
それは何故か。浦和レッズのエースとしての責任、そしてチームに対する思いを何よりも優先して、何よりも大切にしているからに他ならない。