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ついにマウンドを降りた山本昌、
「ドラフト会議」以来のある再会。
text by
大平誠Makoto Ohira
photograph byMOTOKO
posted2015/11/12 12:40
茅ヶ崎の海岸は、江の島まで往復20kmのランニングをした思い出の場所だ。
「昔と同じじゃねえか」
母校の会議室を借り、ひとしきり対談を済ませ、写真撮影のためにグラウンドに降りた。恩師率いる野球部が神奈川県下に名を轟かす強豪に成長し、他の運動部もつられるように強くなるにつれ、猫の額ほどだったグラウンドも拡大してくれたようだ。当時の2倍はあろうかと思しきグラウンドはマウンドの位置も変わっていたが、思いもかけず懐かしいものを昌が見つけた。
「おい、この鉄棒昔と同じじゃねえか。体育倉庫も一緒だわ。この中に高跳び用のマットが入ってたんだよな」
そう。恩師の姿が見えないときは、そのマットの上でプロレスの技を試したりしたものだ。赤茶けた板張りの体育倉庫も、鉄棒をはめ込んだ水色のポールも、35年前のままだった。そして去り際、山本昌は、薄くなりかけた頭を深々とグラウンドに下げた。誰が見ているわけでもないのに。
茅ヶ崎海岸でこみ上げる思い出。
筆者や山本昌が生まれたのは東京五輪の翌年、日韓国交正常化した1965年。いま思えば、終戦からわずか20年後のことだ。父母の世代は高度成長時代を遮二無二働き、多くの労働者が土地の安い郊外に小さな家を買い、移り住んだ。その子供たちは謂わば根無し草。小学校時代に横浜市から転校してきた筆者や山本昌も然りだ。そして、徴兵され沖縄戦で戦死した父の顔を知らずに熊本で生まれ育ち、苦学の末に神奈川県で教師の職を得た超熱血教師に導かれ、それぞれが五十までの人生を辛うじて歩んでこれた。
取材の最後、我々は茅ヶ崎海岸を訪れた。沖には烏帽子岩、遠く東には江の島がクッキリと見える。サザンオールスターズの歌詞に出てくるままの、都会人から見れば憧れの景色も、我々にとっては、江の島往復20kmのランニングというえげつない思い出がこみ上げる汗と涙の砂浜。しかし、潮の香りと波音は、根無し草にとっては何にも代え難い故郷そのものだった。
対談中、山本昌はそう恩師に語っている。
長い現役生活を終えた今、原風景を振り返った「山本昌、茅ヶ崎に帰る」本編は、Number889号でお読みください。