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雨の鈴鹿、悲劇はなぜ起きたか。
ビアンキの無事を総力で祈るF1界。
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byHiroshi Kaneko
posted2014/10/07 11:20
日本GPで優勝を果たし、ニコ・ロズベルグを抜いて首位にたったルイス・ハミルトン。表彰台上には賑やかな雰囲気が無く、驚くほど陰鬱だった。ジュール・ビアンキの無事が祈られる。
マンセル、ラウダの心中はいかほどか……。
その3人に表彰式でインタビューしていたナイジェル・マンセルも、思いは同じだった。
マンセルは20年前の'94年、その年のサンマリノGPで事故死したアイルトン・セナの代役として、日本GPに出場していた。あの年も鈴鹿は激しい雨が降る中で行なわれた。
レースは一時中断し、2ヒート制が敷かれた。そのような悪コンディション下でも、マンセルは最後までジャン・アレジと激しく表彰台を争い、最終ラップにアレジをオーバーテイクして3番手でチェッカーフラッグを受ける熱い走りを披露した。ただし、2ヒート合算のタイムではアレジに及ばず、4位に終わった。そして、それがマンセルの鈴鹿でのベストリザルトとなった。雨の中、命を賭けて戦ったマンセルもきっと心の中で、ビアンキを讃えていたと思う。
この4人による表彰式を表彰台の下から複雑な思いで見つめていたのが、ニキ・ラウダだった。日本で初めてのF1となった、富士スピードウェイで開催された'76年のF1世界選手権イン・ジャパン。ラウダはそのレースにタイトルをかけて臨みながら、大雨に見舞われたためにフォーメーションラップで、自らの判断でピットインしリタイア、タイトルを逃している。あのときもスタートは午後3時すぎ。観客動員数は今年と同じ7万2000人だった。
しかし、ラウダにはこんな記憶もある。それは、同じ年にニュルブルクリンクで行なわれた雨のドイツGPで瀕死の重傷を負った経験だ。だからこそ、ラウダもまた、心の中でビアンキにエールを送っていることだろう。
「私も絶望の縁から帰ってきた。君の日本GPはまだ終わっていない。早くピットに帰って来い」と。