沸騰! 日本サラブ列島BACK NUMBER
寺山修司、没後30年に思う――。
競馬を愛した偉人が残したもの。
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byMotohisa Ando
posted2013/05/03 08:00
1966(昭和41)年、中山競馬場での寺山。「俺に逢いたいと思ったら、家へ訪ねてくるよりも日曜日の競馬場のほうが確実だよ」と語るほど、足しげく競馬場に通ったという。
スシ屋の政がいった。
「ブラッドストーン・ステークスは休養明けで久しぶりの馬がくるぜ」
「どうしてだ?」
というと、一枚のはがきを取り出した。
「三か月前に別れた女から頼りがきたんだよ。突然、オレから去っていったので、てっきりフラれたと思ってたら故郷に帰ってたらしい」
それで縁起のいいところで三か月ぶりに出てきた馬に祝儀をはずむ、というわけである。(原文ママ)
これは、寺山修司が1970(昭和45)年秋から'83年春まで「報知新聞」に連載していた予想コラム「みどころ」「風の吹くまゝ」の、'73年3月3日付の書き出しである(『競馬場で逢おう』寺山修司・著/JICC出版局より)。
スシ屋の政、トルコの桃ちゃん、バーテンの万田、フルさん……といった個性的な登場人物が世間話や競馬談義をしながら翌日の馬券を予想する。こうしたスタイルの競馬コラムを、寺山より先に書いていた人がいたのかもしれないが、のちの時代の書き手がこぞってマネをするほどメジャーなものにしたのは、間違いなく寺山であった。
'70年代の日本人の思いが伝わってくる詩「さらば ハイセイコー」。
それはいいとして、なぜ今、寺山修司なのかと思われた人もいるだろう。
今年、2013年は、日本ダービーが第80回目を迎える節目の年として、歴代のダービー馬の名をとった冠レースが企画されるなど盛り上がっているが、同時に、寺山の没後30年でもあるのだ。
寺山は、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発し、'83年5月4日、世を去った。47歳という若さだった。キズナが出走する京都新聞杯の行われる日が祥月命日なのである。
ふりむくと
一人の少年工が立っている
彼はハイセイコーが勝つたび
うれしくて
カレーライスを三杯も食べた
という一節から始まる寺山の詩「さらば ハイセイコー」などは、今読んでも泣ける。
試しに、この詩に何度も出てくる「ハイセイコー」という部分を、あなたが応援していた元競走馬の名に置き換えてみてほしい。そうすると、'70年代、オイルショックに見舞われた日本をひたむきな走りで慰めたハイセイコーを人々がどんな思いで見守っていたか、ウルウルしながら理解できる。
このほか、馬を擬人化したり、出走馬の力関係を世相にからめて書いたり、また例えば、芦毛の逃げ馬ホワイトフォンテンに「白い逃亡者」というニックネームをつけて個性を浮き彫りにしたりと、寺山修司は、競馬を文芸の域に押し上げるという大きな仕事をやってのけた偉人だと私は思っている。
しかし、である。