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<初マラソン特別寄稿> 角田光代 「それでもとにかく走るのだ」~直木賞作家の東京マラソン体験記~
text by
角田光代Mitsuyo Kakuta
photograph byAtsushi Kondo
posted2013/02/22 06:01
号砲から15分ほど待って、ゆっくりと列が動きはじめる。
大会当日、早朝の電車に乗って新宿に向かう。地下鉄を降りて地上に出ると、さっきまで明けきらなかった夜がすっかり明けて、しかも、晴れている。ほっとする。しかしながら、気持ちまで晴れやかになったかというとそんなことはなくて、ああ、なんで走るなんて言ってしまったか、と思うばかり。やる、と決めたからやるけれど、やっぱりいやなものはいやなのだ。
スタートは9時10分。さすがに、ものすごい人である。お正月の神社参拝客よりも多いのではないか。スタートの10分前くらいに、ようやくブロックに到着した。今までの人波と打って変わってブロック内はスペースがあり、ストレッチをする余裕があってほっとする。
そうして遠くで歓声が起き、音楽が聞こえるが、何が起きているのかまるで見えない。続いてスタートピストルの号砲。あ、はじまった、と思う。しかしもちろん、ブロックの列はまったく動かない。15分ほど待って、ゆっくりと列が動きはじめる。角を曲がるとスタート地点のアーチが見える。応援と見物の人で歩道はふくれあがっている。アーチをくぐると、ようやく走り出せるほどのスペースが空く。iPodとGPS付き腕時計のスイッチをオンにして、アスファルトに散らばる紙吹雪を踏みしめ、いざ、走り出す。
飯田橋の手前で5km地点を通過する頃に気づいた、調子のよさ。
西新宿の高層ビル群を眺めながら進むと、前方に新宿大ガードが見えてくる。ここは幾度も歩いているし、地図だって頭に入っているのだが、やっぱりびっくりしてしまう。新宿のど真ん中を、しかも車線を、堂々と走っていることに。
新宿、新宿御苑、四谷と、見慣れた町を走る。飯田橋の手前で5km地点を通過する。そのあたりで、今日はなんだか調子がいいと気づく。毎週末走っていると、ちょっとした体調の善し悪しが、走ることのできる距離やペースに、あまりにもそのまま影響することに驚く。調子がいい、ということは、だからものすごく重要なのだ。
「ペースを落とすのは、ペースを上げるよりよほど勇気が要る」
走る前、マラソン体験者たちに幾度も念押しされたことがある。それは、自分のペースを乱すな、ということ。急ぐな、巻きこまれるな、心配になるくらい、ゆっくりでいけ。
大会に幾度か出ると、そのことの重みが本当によくわかる。私ははじめて出た駅伝で、他人、とくに高齢者や、うんと太った人に追い抜かれるたび、闘争心を煽られて、無意識にペースを上げ、3km地点で棄権したいほど疲労した記憶がある。敵は他人ではなくて己の闘争心なのだ。
私が練習時にいつもつけているGPS付き腕時計には、正確な走行距離と時速ペースが時計画面に表示される。調子がいいと思ったところでその時計を確認すると、なんと時速10.3kmという表示。おっと、これは急ぎすぎ。ふだんの練習はだいたい9.5前後。今日、最初の20kmはそれよりゆっくり、8.5前後で走ろうと決めていたのだった。あわててペースを落とす。ペースを落とすのは、じつはペースを上げるよりよほど勇気が要ることなんだなあと、走りながら思う。