野球善哉BACK NUMBER
“上原二世”と呼ばれた元巨人ドラ1。
村田透が米国で一世一代の大勝負!
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2012/03/02 10:30
2007年秋、ドラフト1位で巨人に入団した際の村田透(写真中央)。同期には、藤村大介、中井大介らがいた。他チームでは、佐藤由規(ヤクルト)、唐川侑己(ロッテ)、中田翔(日ハム)らがいる
通訳も契約の保証も一切無しの厳しい環境に飛び込む。
村田は回想する。
「後で知ったんですけど、インディアンスは『興味がある』と返事をした選手しかアメリカに連れて行かないらしいんです。僕が『興味がある』と伝えると、会って話しましょうということになりました。(日本の球団で)裏方の仕事の話がないわけではなかったのですが、僕自身、選手として思うように投げきったという達成感がなかった。身体を使いきった感じはしていなかったんです。肩や肘に故障もなく万全だったし、まだまだやれる自信もあった。だから、野球を辞めるという気にはならなかった」
とはいえ、情熱一本で飛び込んだアメリカの舞台は一筋縄ではいかない厳しい環境があった。
ポスティングシステムやFAなど、乞われて海を渡る日本のスター選手たちとは違い、通訳もつかない村田にはすべてがゼロからのスタートだった。契約したといっても、仕事の保障が付いているわけでもなく、1年目であってもスプリングキャンプの時点で解雇を言い渡される可能性もあったという。
投手だけで50人以上いるマイナーでの激しい生存競争。
マイナーに属する人数の多さも、村田の度肝を抜いた。
「ピッチャーだけで50人以上、野手も含めると、120~150人くらいがいたんです。ウソやろ? って思いました。旅立つ前はメジャーに上がることを目標にと思っていましたけど、その時は『これは簡単じゃないな。3Aですら難しいぞ』ってと思いました」
村田は1Aの、それも一番上のクラスに属すことになった(ハイエー)。開幕してから調子を上げていたが、5月の中頃に広背筋を負傷、7週間の戦線離脱を余儀なくされた。7月に復帰し、シーズンの終盤やプレーオフの大事なゲームに登板するなど、結果を残したものの、復帰してからの期間が余りに短く、1年目での2A昇格とまではならなかった。
それでも村田はシーズン後半のパフォーマンスとアメリカでの野球に手ごたえを感じていた。
「ハイエーレベルでは全然、打たれなくなっていました。抑えられる自信もあったし、そんなに難しい相手じゃないと思えるようになっていました。上にもアピールもしましたよ。このピッチングしても、上がられへんのか! って、ストレートばっかり投げていたくらいでしたから。アメリカは、練習方法とか慣れないところがありましたけど、もう問題はないですね。今、感じるのは、アメリカのスタイルでやると、身体に疲れを感じないことですね。日本にいた時より、僕の球は速くなっているんですけど、それも、身体に疲れを感じずに全力で投げられているからだと思う」