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カタロニアの奇蹟「入院転ジテ入賞ト為ス」
text by
渕貴之Takayuki Fuchi
posted2007/06/14 00:00
パドックのいちばん奥、スーパーアグリの小さなモーターホームに琢磨が駆けてくる。
スタッフが総出で彼を迎え、勝ったわけでもないのにシャンパンの飛沫が飛ぶ。肩車されるのはこのチームに来て何度目になるのだろう。どの顔も喜びに溢れている。
5月13日スペインGP決勝、佐藤琢磨8位入賞。スーパーアグリF1チームは、現状では奇蹟とも思える1ポイントを手にした。鈴木亜久里代表もチーム設立以来の労苦が報われたかたちだが、この喜びのわずか2週間前にはチームに激震が走っていた。
ゴールデンウィークが始まったばかりの4月29日。深夜に異変は起きた。
「痛いなんてもんじゃないよ。もう内臓を素手でかき回されているくらい」
亜久里代表は過去に味わったことのない痛みに襲われた。救急車で病院に搬送され、腸閉塞と診断される。
「鎮痛剤で痛みが治まって、帰れるかと思ったら、鼻から腸までチューブ入れられて。それから1週間飲まず食わずで点滴だけ。でも辛かったのは1日だけ。あとは静養しているだけだったから、退院した後はけっこう快調だったよ。ちょっと体重が気になってたから、いいダイエットにもなったしね(笑)」
5月6日の退院後、明るく振る舞った亜久里代表だが、原因はおそらく疲れやストレス。F1だけでなく、フォーミュラニッポンなど様々なレースプロジェクトを手がける彼は、日頃から超がつくほどの多忙な日々を送っている。休日などないに等しい。情熱の源は何かという問いには、即答だった。
「そんなの考えたこともないよ。F1は自分がやるんだって決めてたことだからね。それに向かって一生懸命やっているだけ」
無事、退院したとはいえ、グランプリはもう1週間後。ファクトリーとの業務連絡、取材やスポンサー対応に追われながら、慌ただしくスペインへ発つ日がやってきた。
「いつも通りの気持ちだよ」
5月11日金曜日。亜久里代表が移動の疲れも見せずサーキット入り。心配していた人々に笑顔で「大丈夫」と挨拶を繰り返す。
金曜日のパドックは比較的穏やかに時が流れる。モーターホーム2階のテラスで、亜久里代表はリラックスしているように見える。テクニカルディレクターのマーク・プレストンが現れた。入院中に行われたバルセロナの合同テストでチームは成果を上げていた。
「技術的なことはマークと話すことが多いね。だけど、いつも報告は受けているから、現場で何かを決定するようなことはないよ」
明けた5月12日土曜日。琢磨の予選結果は13位だった。開幕戦の10位には及ばないが、ワークス勢が本気で進化しはじめるタイミングにおいてはまずまずの順位。テストの成果は着実に現れている。
「ギヤボックスなど、マシンのアップデートがどういう結果で出てくるか。二人のドライバーがどんなレースをしてくれるか楽しみだね。体調も含めて心配事はないよ」
5月13日日曜日、午後2時。快晴の空の下、決勝レースがスタート。
琢磨はじわじわと順位を上げていく。目の前にはっきりと標的があるわけではないが、淡々としかし強いプッシュを続けている。そして残り6周でついに8位に浮上した。このままゴールしてくれ──SAF1の誰もが祈るような気持ちでゴールを待つ。
そして、歓喜の瞬間が訪れた。
「琢磨がルノーの前に出たとき、抜かれはしないだろうけど、トラブルが出なければいいなと思っていた。レースは何があるか分からないじゃない」
手に汗握る、という心境ではなかったという。長く戦いの現場に身を置く者の言葉。だが歓喜のなか、亜久里代表はこうも言った。
「僕らには優勝に匹敵する1ポイントだね」
奇蹟は起きた。入院という緊急事態に始まった激動の2週間の終わりには、とてつもなく嬉しいプレゼントが待っていた。
「入院して身体の悪いもの全部出たからいいことが起きたんだよ。でも、1ポイント獲るだけが目的じゃない。富士のGPに向けてチームを強くして、最終戦までいいレースをしていきたいというのが次の目標だよね」
いいことも悪いことも過ぎたこと──そう言って笑う亜久里代表は、すでに残りシーズンの戦いだけを見据えている。