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<プロ野球・円熟の最年長世代> 木田優夫 「150kmはあきらめない」
text by
永谷脩Osamu Nagatani
posted2011/04/18 06:00
心技体のバランスを崩した2度目のオリックス時代。
結局、オリックスにもう一度お世話になることになったんですが、その時もまだ「こういう形でオレは抑えてやるんだ」という気持ちでいました。でもあの頃は、腰を痛めたこともあって、技術や体力、精神的なものとか全部、いちばんバランスが悪かった。オリックスの最後の方は、足首から先が麻痺して、ほとんど力が入らないような状態でした。
'01年に自由契約になった後、腰の手術に踏み切りました。少し回復してから、アリゾナにメジャーのテストを受けに行ったんですけど、また腰の痛みが再発してしまった。テストに間に合わせようと急いでしまったのがいけなかったんですね。「マイナー契約だったら」という話もあったけど、その話をしようかという時に、3日間くらい動けないほど痛くなって。これはもう野球どころじゃないということで、帰国して治療に専念することにしました。それでも、痛みさえとれれば、3Aだったら抑えられるという自信がありました。またテストを受けて、3Aで抑えられるぐらいのボールを見せれば、どこかが獲ってくれるだろうって。
どことも契約しない“空白の1年”で気づいた現役の尊さ。
ここから、どことも契約しない“空白の1年”に入るんですけど、何か違うことをやらなきゃいけないと思うようになったのもこの時です。それまでと同じことをやっていても、年も年だし、さらに故障もあるということになったら評価してもらえないだろうから。そう思って、カーブを練習し始めました。
もうひとつ感じたのは、グラウンドで練習出来るというのは、特別なんだということ。どことも契約していないから、グラウンドの中に入ることすらできない。僕自身はまだ現役なんだって思っていても、実際はプロ野球選手じゃないんだからね。
腰をしっかり治して、トレーニングもして、こういう球を投げていけばチャンスがあるだろうなという状態になった矢先の'03年3月、あの交通事故がありました。ドジャースと契約して、キャンプに入ろうとしていた直前だったので、また1カ月もリハビリしなきゃいけないのかって、ちょっと悔しかった。
ドジャースの2年目、3Aでカナダのエドモントンに遠征していた時に電話がかかってきて、「すぐ監督の部屋に行け」と言われたんです。監督の部屋に行くと「君はマリナーズに移籍した。今日からビッグリーガーだから、すぐマリナーズに合流しろ。おめでとう」って握手されて。大慌てで飛行機に乗って、マリナーズが滞在していたトロントにその日の夜に着きました。トレーナーが一人待ってくれてましたけど、長谷川(滋利)とイチローは冷たいからご飯を食べに行っちゃってた(笑)。ドジャースの青いスパイクしかなかったので、マジックで黒く塗ってから練習に参加したほどでした。さすがにこの移籍の時は、「アメリカだなあ」って思いましたよ。