野ボール横丁BACK NUMBER
実は斎藤佑樹は「持っていない」!?
蹉跌からの本領発揮を期待する理由。
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byHideki Sugiyama
posted2011/04/11 10:30
東日本大震災のためのチャリティーゲームの試合開始前の風景。田中と共に立って募金活動に精を出した斎藤
同級生の楽天・田中将大は確実に「運命を持っている」。
兵庫出身の田中は中学卒業後、本来は奈良の智弁学園に進む予定だった。だが田中の実力をかっていた当の監督が辞めてしまったため、この話は白紙になった。そこで一転し、中学3年春、甲子園で実際に見て印象に残った北海道の駒大苫小牧への進学を決意したのだ。
そして、1年夏、田中はベンチ入りはできなかったものの、駒大苫小牧はいきなり道勢として初となる全国制覇を達成する。さらに2年夏、今度は田中がエースとなり、連覇。3年夏も早実に敗れたものの準優勝を収めた。
智弁学園では、どれほど活躍しても、今ほどの人気は得ていなかったと思う。野球後進地域の北海道という物語性があったからこそ、人々が酔い、それがエネルギーとなり、このような偉業が成し遂げられたのだと思うし、同時に田中はあれほどの光をまとうことができたのだ。
大学時代の最後にして最大の見せ場は仲間に助けられ……。
一方の斎藤は、大学時代は、高校時代以上に持っていなかった。本当に持っていたら、もっと活躍してもいいはずだ。
それでも唯一、「持ってるかも」と感じたのは4年秋の早慶戦だ。
その初戦、1勝すればリーグ優勝が決まるというシチュエーションで先発が巡ってきた。大学生活の最後を飾るのに、これ以上の舞台はないと思った。が、斎藤はその試合を0-2で落とす。
しかしまだ続きがあった。早大は翌日も敗れ、連敗。優勝の行方は、早慶の間では実に50年振りという優勝決定戦までもつれた。そして、その先発マウンドを任されたのが斎藤だった。
だが、斎藤は8回1死までノーヒットピッチングを続けていたものの、8回に5失点し、ノックアウト。リリーフエースの大石達也(西武)に助けられ事なきを得たが(10-5で早大が勝利)、斎藤は、一度ならずとも二度までも失敗したのだ。