高校時代は5000mの自己ベストが14分36秒11と突出したランナーではありませんでしたが、駒澤大学で急激に力を付け、名門チームの大黒柱となるまでに成長。ハーフマラソンで59分台に突入するなど日本のトップランナーとして活躍を続ける篠原選手に、なぜここまで強くなることができたのか、約45分たっぷりとお話を伺いました。
「もう1回やれば、もうちょっと速く走れるかなと思います。ただ、あの時の、あのレース展開の中では、最大限のことはできたかなと思います」
今年の箱根駅伝で、エースとして覚悟を持って挑んだ「花の2区」をこう振り返ります。篠原選手は2区の特徴である上りが得意なわけではなく、終盤の戸塚の壁では「体が重くて、歩いちゃうんじゃないかってぐらい」と苦戦したそうですが、ハイレベルな争いとなる中でも区間4位の走りを見せ、キャプテンとして総合2位の原動力となりました。
「負けたことは悔しいですけど、次に繋がる駅伝だったと思っています」

その後、2月の香川丸亀国際ハーフマラソンでも篠原選手は目を見張るような走りを披露しました。
「途中で、日本記録は絶対に出ると思っていました」
こう話す通り、昨夏に練習を共にしていた太田智樹選手(トヨタ自動車)とハイペースを刻み、ペースが少し落ちた局面では、自ら引っ張る積極性を見せました。デッドヒートの末、太田選手に3秒差で敗れはしたものの、これまで日本人が超えられなかった「60分の壁」を突破し、59分30秒の日本学生記録(日本歴代2位)を打ち立てました。
「充実感もありますが、今回はめちゃくちゃ悔しかったです。自分の力も伸びているのですが、その分、太田さんも強くなっている。僕が山の頂上に向かって、5合目から8合目まで来たとしたら、太田さんが8合目から頂上まで行っちゃった感じというか」

従来の記録を上回ったものの、日本記録保持者にはなれず、こちらが「日本新記録ボーナスの500万円も惜しかったですね」と問うと「結婚披露宴を控えている太田さんへの結婚祝いということで(笑)」と笑顔を見せた。
「この環境で、自分は才能がないことを認識」
高校時代は、インターハイの代替大会だった全国高校大会で1500m3位の実績がありました。ですが、5000mは14分36秒11と全国トップクラスの選手だったわけではありません。駒大に入学した篠原選手がいかにして、学生の、いや日本のトップランナーへと駆け上がっていったのか。大八木弘明、藤田敦史という指導者の下で、そして田澤廉、鈴木芽吹という強力な先輩、佐藤圭汰という後輩と過ごした4年間を振り返ってくれました。そして、日本人学生記録を連発した姿からは想像できないような言葉を口にしました。
「この環境で、自分は才能がない、ということを認識したからこそ強くなれたと思います」
その言葉の真意はどこにあるのか。また駒澤大学卒業後、富士通に所属しながらも引き続き大八木総監督の指導を受ける中で目指すべきランナー像とは――。
動画では、その他にも以下のようなさまざまなトピックについて伺いました。
- 箱根駅伝2区で聞いた「運営管理車」からの声と並木主務の存在
- キャプテンとして最も苦しかった時期は?
- 進路選択にも影響したGgoatでしか得られない経験
- 雲の上の田澤先輩の「他の人とは違う才能」
- 強烈に印象に残っている2年時の練習とは?
- 丸亀ハーフで惜敗。太田智樹との距離とライバル意識
- 同世代のライバルは大学駅伝で競り合った2人の選手
- シューズメーカー「On」と契約した深い理由
アメリカ・アルバカーキでの高地合宿出発前に、1つ1つの質問に丁寧に答えてくれました。その言葉には多くの人に愛される篠原選手の人柄が滲み出ていたと思います。
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