1989年にナンバー誌上に載った清原和博の『僕の原点甲子園』。
プロ4年目にして日本一も既に手にしていた清原が、弟・幸治がプレーする母校PL学園のグラウンドを訪れる。
清原にとって甲子園とはどういうものだったのか? 3年間の想い出を詳細に語った貴重なインタビュー。
プロ4年目にして日本一も既に手にしていた清原が、弟・幸治がプレーする母校PL学園のグラウンドを訪れる。
清原にとって甲子園とはどういうものだったのか? 3年間の想い出を詳細に語った貴重なインタビュー。
「まわり道をしていこうか」
清原和博は、オールスター第2戦が行なわれる藤井寺球場に向かう道すがら、こんなことを言った。7月26日のことである。
この日弟・幸治が主将をしているPL学園は、近大附属高と対戦していた。その結果が気になって仕方がない様子である。車は環状線から富田林にあるPL学園に向けられた。
「試合前、PL学園に行くなんて、今日は何か打てそうな気がするな」
車が学園に近づくにつれ、ふだんは減多なことで自分から口を開かない男が、少年のように能弁になって来た。
この雲、この緑、思い出すなあ、桑田はいつも近くのゴルフ場を走っていたけど、ボクはいつも御正殿前の広場を走っていた。そん時、見ていた雲と同じ形の雲なんだ。同じ緑の匂いなんだ。高校時代を思いだすなあ。ところで幸治たちはどうしたろうか。
PL学園の広場では、7月31日に行なわれるPL教の大花火大会の準備が、進められていた。
甲子園に出られない年は、花火大会が終わってから、ゴルフ場のゴミ集めをするんだ。だけど、予選に勝っている年はそれが免除になる。打ち上げられる花火を見て、ああ、甲子園に今年もいけるんだと何度も思ったよ、たまらない嬉しさだね。
弟の幸治を甲子園に行かせたい。なぜなら……。
清原は3年間、一度もゴミ集めをする経験がなかった。彼が見た花火は、いつもきれいで華麗な心安まる花火だった。
大会予選が行なわれているため、人っ子一人いないグラウンドに来た。彼はネット裏にある水汲み場で立ち止まった。
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photograph by Daisuke Yamaguchi