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「将来はプロ野球の監督になるんよ」“神宮のスター”岡田彰布が早稲田で培ったリーダーシップの原点《恩師・石山建一が語る「帝王学」とは?》
早稲田での背番号は25。4年生になってからはキャプテンナンバーの10。
岡田彰布は、早稲田の白いユニフォームが似合う、大スターだった。
大阪・北陽高校(現・関西大学北陽高校)出身。甲子園は'73年夏に出場しただけで、知名度は全国区ではなかったが、'76年に早稲田に入学した岡田をすぐ抜擢したのは、当時33歳の監督、石山建一だった。
「体はそんなに大きくないよ。でも、ひと目見た瞬間から、『これはモノになる』と思ったね。バッティングでは何よりリストが強い。北陽では投手もやってたけど、これは打撃に専念させた方がいいと思ってコンバート。構想では三塁だったけど、松本(匡史・のちに巨人)がいたので、最初はレフト、打順は7番で起用したんだよ」
1年秋、岡田は法政戦で江川卓と対戦、3安打を放って大器の片鱗を見せる。ただし、2年生になって5番に昇格した岡田は江川に抑え込まれ、後にこう話している。
「江川さん、7番と5番に投げる球が違うのよ。あの頃から、下位打線には手を抜いとったな(笑)」
石山は、岡田が1年生の時から早稲田史上、いや東京六大学史上、最高の打者になれることを疑わなかった。
「だから、俺は岡田に言ったのよ。早稲田・谷沢健一の通算打率3割6分、法政・田淵幸一の通算22本塁打、明治・高田繁の7季連続ベストナイン、これをすべて、塗り替えるのを目標にしなさいってね」
結果的にベストナインは5季連続、通算本塁打は20本で田淵に2本届かなかったが、通算打率3割7分9厘、通算打点81は40年以上経った今も破られていない大記録。'78年、3年秋には三冠王を達成した。
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