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「田舎に帰ったらお前は英雄やから」38歳岡田彰布の知られざる親心…“北のゴジラ”→トラック運転手が語る「不思議な優しさ」

2024/12/11
93年に砂川北高からドラフト4位でオリックスに入団した関吉
'95年に引退後、岡田はそのままオリックスの二軍助監督兼打撃コーチとなった。指導者の道を歩み出した男が大事にしたのは、去り行く選手たちのその後――。愛情と人情に溢れた将来の日本一監督の第一歩を、当時の二軍選手が明かす。(原題:[人情余話]38歳、指導者1年生の親心)

 冬は銀世界になる札幌でトラック運転手として働き始めてから、15年近くが経った。2トンユニック車を運転し、仮設の足場などを北海道全域に運ぶ。稚内など遠方の時は深夜に出て明け方に着く毎日を過ごしている。

「チェーンはアスファルトだと切れるので、雪で見えなくなってからつけるんですよね」

 かつてオリックスの外野手だった関吉雅人は日々の仕事が忙しく、いつの間にか野球とは疎遠になった。だが、昨年の秋は少し違った。自然とオリックスと阪神の日本シリーズの結果を伝えるテレビのニュースに目が向いた。画面には岡田彰布監督が映っていた。

「やっぱり、年を取られたなあと思って。そりゃそうだよな、と思いながら……。もう、だいぶ経ちますしね。向こうの世界の人というか、本当は出会っていなかったんじゃないかと思ってしまう自分がいるんですよね」

 関吉には岡田との思い出があった。

 いまから32年前、関吉自身も“向こうの世界の人”になるべく、白球を追っていた。北海道・砂川北高(現・砂川高)では夏の甲子園で左中間に本塁打を放ち、1992年のドラフト4位でオリックスに指名された。同学年に巨人1位で星稜高の松井秀喜がいたことで「北のゴジラ」となぞらえられた右打ちの大型スラッガーは、「ホームランバッターになりたい」と夢を見た。

 だが、憧れの世界は想像を超える厳しさだった。関吉が苦戦したのはプロの球威である。体が前に突っ込むため、とらえたと思った打球が詰まる。間合いを計れず、まともな形で打てないまま、最初の3年は打率1割台。円形脱毛症にまでなってしまった。1学年上のイチローが仰木彬監督率いるチームをパ・リーグ連覇と日本一に押し上げるなか、関吉は二軍でもがき続けた。

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photograph by Kiichi Matsumoto

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