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《“決断力”を考える》本田圭佑の“派手な言動”の源泉とは何か?「自分が社会のロールモデルにならなあかん」<地球レベルのヒーローへ>

2024/07/13
これまで9カ国10クラブでプレーしてきた本田圭佑
この男にとって、現状維持は衰退の始まりでしかない。まさかのロシア行きも、ミランの10番を背負った時も、常に反発を恐れることなく、大胆な一歩を踏み出してきた。今も戦い続けるケイスケホンダ流・最強の決断哲学に迫る。(原題:[“決める男”の流儀]10 本田圭佑「地球レベルのヒーローに」)

 本田圭佑はW杯で最も高い決定力を誇った日本人選手である。

 2010年W杯で2得点1アシスト、'14年W杯で1得点1アシスト、'18年W杯で1得点1アシスト。世界でも3大会連続得点&アシストはデビッド・ベッカムやリオネル・メッシら7人しか達成していない。

 類稀な「決める力」はゴール前だけではない。日本人初のロシアプレミアリーグ移籍、ACミランにおける10番の選択、現役中の本格的なビジネス挑戦など、数々の大胆な決断を下してファンを驚かせてきた。

 社会の反発を恐れず、次々に壁を叩き壊す決断の流儀は明らかに一般とは異なる。いったい本田の決断力は何が特別なのか?

4年後のW杯を待つという発想は微塵もなかった。

 '10年1月、本田はオランダのVVVフェンロからロシアのCSKAモスクワへ移籍した。当時、ロシアプレミアリーグは資源マネーによって急成長する一方で、「キャリアの終着地」と見られていた。高年俸目当てに集まる選手が多く、そこからステップアップした選手がほとんどいなかったからだ。現在のサウジアラビアリーグのような存在である。普通に考えれば、将来有望な若手が行くべき場所ではなかった。

 そして何より、当時は南アフリカW杯の半年前というタイミングだった。

 本田は'08-'09シーズンにオランダ2部でMVPに輝き、翌シーズンもオランダ1部で爆発して日本代表にコンスタントに招集され始めていた。W杯のメンバー入りだけを考えたらフェンロに留まるのがロジカルな選択に思われた。また、移籍金の額に関してクラブ合意に至っていなかったもののオランダの名門PSVからもオファーが届いており、交渉の行方を待ってそちらを選ぶという手もあった。

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photograph by Getty Images

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