水谷隼は自分が勝者となる姿を想像することができなかった。
決勝戦は3-3で最終第7ゲームを迎え、日本は最強と言われる中国の許昕・劉詩雯のペアを6-0とリードしていた。相手陣営は静まり返り、東京体育館に響いているのは日本語の声援ばかりだった。追いつめられているのは相手であり、もう金メダルに片手をかけている状況だった。それなのに、どうしても勝てるとは思えなかった。
水谷「やはりこの長い歴史の中でどれだけ逆転劇を見せられてきたか、ということです。こちらが5、6点リードしていてもこれまでの中国には全然負ける雰囲気がなかった。例えば自分は許昕選手にリオの団体で初めて勝ったんですが、それまで9回マッチポイントを取ったことがあって、そのすべてで逆転負けしていました。中国の底力、強さを何度も肌で感じてきたんです」
水谷はもう20年近くも卓球王国の壁に挑んできた。低迷していた日本卓球界の切り札として14歳でドイツに渡り、リオデジャネイロ五輪ではシングルスにおける日本人初のメダリストになった。そのパイオニアでも中国の牙城は崩せなかった。
卓球が五輪正式競技となった1988年のソウルからリオまで32個の金メダルのうち28個を中国が独占していた。表彰台に立ってもいつも自分より高いところに中国の選手がいて、会場に流れるのは中華人民共和国の「義勇軍行進曲」であった。
ペンホルダーと呼ばれる稀少な握りから強打を繰り出す許昕とは20戦あまり戦って1度しか勝てていなかった。混合ダブルスのペアとしても4戦全敗だった。深層心理に刷り込まれた中国の壁が、水谷を押し潰そうとしていた。
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています