かつて日本のマラソン界トップがすなわち“世界”だった黄金期があった。尋常ではない練習量を誇った宗兄弟、ズバ抜けた才能に強靭なメンタルを備えた中山竹通、彗星の如く現われモンジュイックの丘に散った森下広一。真のレジェンドふたりが語り合う、ニッポン長距離界の輝かしい記憶。
瀬古 谷口君、久しぶり。あれ? なんだか、また痩せたんじゃない?
谷口 頬、コケちゃいました(笑)。
瀬古 まだ、そのギャグ使ってるのか! でも、面白いからいいよ。
――あの~、対談を始めていただいていいでしょうか。
瀬古 あれ、もう始まってるつもりだったんだけどな。
――まず、日本のマラソンの黄金時代を彩ったおふたりの、初マラソンの思い出を語っていただきたいんです。
瀬古 私の初マラソンは大学1年、1977年2月の京都マラソンです。一浪して早稲田に入って、翌年1月の箱根で2区を走って区間11位でね。浪人時代からのブランクで準備不足は明らかだったんだけど、モスクワ・オリンピックを目指すには最低でも3回はフルマラソンを走っておきたいと逆算して出たんです。「マラソンって、どんなものなんだろう?」と恐る恐る走ってみたら、25kmくらいでランニングハイになってね。ちょうど優勝したビル・ロジャース選手が折り返してきたのが見えて、調子に乗ってペースを上げたんです。
――ロジャースは瀬古さんのライバルで、ボストン、ニューヨークシティでそれぞれ4回優勝している名ランナーですね。
瀬古 そうそう。そしたら30km手前でガクッと来て、視界が黄色くなってね。100回くらいやめようと思ったけど、なんとか完走して2時間26分0秒。ペース配分しないと大変なことになるというのが分かったのが初マラソンの経験でした。
――谷口さんは'85年の別府大分毎日マラソンで、初マラソン初優勝でしたね。
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