1999年2月1日の夕刻、土佐湾にのぞむ高知県安芸市のホテル・タマイの大ホールは重苦しい空気に満ちていた。
春季キャンプ初日の練習を終えた選手たちが長テーブルに並んでいた。正捕手を争っていた矢野輝弘、まだ人気に数字が追いついていなかった新庄剛志、3年目の今岡誠……、そのひとりひとりに「ノムラの考え 1999」と題されたA4判、40数ページの冊子が配られた。彼らの前にはジャージ姿の新監督、野村克也がいた。
プロ15年目、36歳のベテラン和田豊は憂鬱そうな周りの選手たちとは対照的に密かにこの座学を心待ちにしていた。
「野村さんが監督になると決まってからチームの空気がすごく重くなった。長時間のミーティングというイメージがあって、それまでタイガースにはそういう習慣がなかったからアレルギー反応があった。ただ俺は、ヤクルトが一体どういうミーティングをしているのか、ずっと知りたかった」
前年に最下位だった阪神はとくに野村が率いるヤクルトに歯が立たなかった。その日本一3度の名将が6年連続Bクラスのタイガース再建のためにやってきたのだ。
複写禁止、門外不出の冊子。
和田は例えばヤクルトの投手が打席でなぜ3ボールから打ってきて、それが高い確率でヒットになるのか。そういうことが知りたかった。セオリーは「待て」だ。裏にはきっと野村の配球論があると見ていた。
「自分は配球に関心があった。素材としてはそんなに良い選手じゃなかったから配球や癖を読まないとプロの一線ではやっていけなかったから。プレーボール30秒前まで何か傾向はないかと相手バッテリーの資料を読んでいた。周りからはアホちゃうかという目で見られていたけど……」
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