甲子園通算62勝。黒衣に徹して打ち立てた金字塔は、高校野球の歴史の中でも特異な存在感を放っている。鋭敏な観察眼と類稀な分析力で知られた名参謀が盟友と30年近くにわたって歩んだ二人三脚の内実と、横浜高に黄金期をもたらすまでの流転の半生を辿る。
半袖のポロシャツから、漆のように何層にも焼かれ、黒光りした二の腕が覗く。フランスのシャンパンボトルのように太い。
「昔、巻き上げばっかりやってたから」
小倉清一郎が、どら声を張った。「巻き上げ」とは、先に重りを吊したロープを手首の力で棒に巻きつけるトレーニングのことだ。
小倉は8月31日をもって、横浜高校野球部のコーチを辞めることになった。
「自分の中では、もう限界。70歳だし、ちょうどいいと思ってた」
8月某日。練習試合を終えて自宅に戻った小倉は「年中、手足が冷えて仕方がない」と夏でも出しっ放しになっているコタツに両足を突っ込み、流転の指導者生活を振り返り始めた。
最初、小倉はなかなか目を合わせようとしなかった。しかし、興が乗ってくると、少しずつ視線が行き交い始めた。
「準決勝、決勝まで勝ち進むと監督に嫉妬が湧きますよ」
「甲子園の準決勝、決勝ぐらいまで勝ち進むと、さすがに監督に対して嫉妬が湧きますよ。なんでだよ、って」
高校球界広しと言えど、監督以外で小倉ほど名を知られた指導者はいないだろう。通常、甲子園であっても、試合後に部長やコーチの周りに集まる記者は1人か2人だ。ところが小倉の周りには軽く10人以上集まった。
身長170cm、体重110kg超で、坊主頭。その愛嬌たっぷりのシルエットと、通り一遍では終わらないコメントが人気の秘密だった。
2001年夏、横浜は準々決勝で150km右腕の寺原隼人(ソフトバンク)を擁する日南学園とぶつかった。その試合前、見所を聞かれた小倉(当時は部長)はこう答えた。
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photograph by Hideki Sugiyama