学園の門をくぐった。立浪和義、野村弘樹、片岡篤史、橋本清。
1年生だった4人は、頂点を極めてゆくKKの後姿に何を感じたのか。
彼らが巨大な重圧と対峙し、乗り越え、春夏連覇の偉業を果たすまで。
その夜、清原和博が室内練習場でバットを振り続けた逸話はよく知られている。
1985年春の選抜大会。高校生活最後のシーズンを迎えた清原と桑田真澄の「KKコンビ」を擁するPL学園は揺るぎない優勝候補だったが、準決勝の伊野商戦で苦杯をなめた。伊野商のエース渡辺智男の快速球に3三振を喫した清原は甲子園から戻ってきたあと、室内練習場で150kmに設定したマシンのボールを打ち込んだのだ。
このとき、野球部の研志寮に入ったばかりの野村弘樹も室内練習場にいた。
広島からやってきた15歳の少年に鮮烈な印象を残したのは、傷心の清原が上半身裸になってバットを振る姿だけではない。
清原は付き添った2年生の後輩に、マシンのボールをもっとインコースに設定するように命じた。
言われたとおり、2年生がマシンの角度を変える。が、次にマシンから弾かれたボールは、清原の左足の太ももを直撃した。
「これは、大変なところに来てしまったと思いました」(野村弘樹)
1969年、広島生まれ。背番号「1」として甲子園6勝。'88年、横浜に入団し'93年に最多勝。'02年に現役を引退し、現在は野球評論家
「すみません……」
2年生は青ざめたが、清原は痛がるそぶりを見せなかった。ぐっと唇をかみしめながらマシンをにらみつけ、さっきと同じ位置にスタンスを固めてバットを構えたのだ。
なぜ、そのとき自分が室内練習場にいたのか、野村は覚えていない。はっきりと記憶しているのは、清原の鬼のような形相と、入学前の覚悟が少し揺らいだことである。
「あの清原さんが、甲子園で負けた日の夜に凄い形相でボールを打っている。これは、大変なところに来てしまったと思いました」
野村と同じ年に、立浪和義、橋本清、片岡篤史もPL学園に入学した。桑田と清原たちが31期だから、彼らはPL学園野球部33期生になる。後にプロ野球でも活躍するこの4人を軸にした33期は2年後、史上4校目の春夏連覇を達成する。その第一歩は、桑田や清原の背中を追うところから始まったのだ。
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