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「猪木と馬場が、自信を与えてくれた」愛された外国人レスラー(享年85)が生前に語った“日本への感謝”…ドリー・ファンク・ジュニアとアントニオ猪木の名勝負
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堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ/アフロ
posted2026/08/09 11:01
1969年の初来日で、アントニオ猪木と60分フルタイムの熱戦を繰り広げたドリー・ファンク・ジュニア
「猪木と馬場が、私に自信を与えてくれた」
こうした姿勢で、日本でも数々の名勝負を残してきたドリー。その中から本人が最も印象に残っている試合についても聞いてみると、次のような答えが返ってきた。
「日本では数えきれないほど試合をしてきたので、一つというのは難しいな。あえて言うなら、初来日時に猪木と対戦した試合がそうかもしれないし、その翌年、馬場と闘った試合もよく憶えている。あれは夏の大阪だったが、当時は会場に冷房設備がなく、リング上はテレビライトに照らされていたので、暑くて暑くてしょうがなかった。私の前に試合をしたブルート・バーナードがドレッシングルームに戻ってきたとき、『試合時間が10分すぎたら死んじまうぞ!』って言ってきたくらいだからね。
そんな中、私と馬場は50分以上闘ったんだから、本当は5回死んでるくらいのつらさだった(笑)。猪木と馬場という、日本マット界の2大スターと名勝負を残せたことは、私に自信を与えてくれたよ」
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このインタビューの最後、当時78歳ながら元気そのものだったドリーに、45歳だった筆者が50代からの生き方について聞くとこんな答えが返ってきた。
「後ろを振り返ることはなかったよ」
「何も50代だからと言って、これまでを振り返ったり、残りの人生を考える必要はないと思う。私は22歳でデビューして以来、ずっと前に前に走っていたからね。次は何があるんだ、その次には何が待っているんだという感じで、後ろを振り返ることはなかったよ。私は好運なことに、若くして世界チャンピオンにもなれたし、その後は全日本プロレスのレギュラーとして闘うこともできた。ひとつが終わっても、すぐに次のことが始まるんだ。
もちろん50歳を超えたら体力は衰えてくるから、スポーツ選手として若い頃のような試合数を闘うことはできないが、時間ができたことで新たに不動産のビジネスをスタートすることができたし、56歳のときには、WWEから正式にコーチとして招聘され、それがきっかけで、フロリダにファンキン・コンサーヴァトリー(ファンク学校)というプロレスリングスクールもオープンした。レスリングスクールを始めると、自分の生徒達の成長を見るという楽しみもできたし、むしろ50歳を過ぎてからのほうが、人生の幅が広がったように感じる。だから、50代になっても変わらず、これからの人生に何が待っているのか、わくわくしながら楽しめばいいんじゃないかな」
なんとも心強い言葉を残してくれたドリー・ファンク・ジュニア。かつて“テキサスの若馬”とも呼ばれた偉大なる世界チャンピオンは、常に若々しい心を持ち続け、85年の人生に幕を閉じた。
