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「猪木と馬場が、自信を与えてくれた」愛された外国人レスラー(享年85)が生前に語った“日本への感謝”…ドリー・ファンク・ジュニアとアントニオ猪木の名勝負
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堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ/アフロ
posted2026/08/09 11:01
1969年の初来日で、アントニオ猪木と60分フルタイムの熱戦を繰り広げたドリー・ファンク・ジュニア
「父や世界チャンピオンたちが私の“家庭教師”だった」
「我々、ファンク一家は、もともと祖父の時代にドイツからアメリカにやってきた移民で、父シニアは母と大学時代に結ばれ、私は在学中に生まれたと聞いている。そして大学時代に強豪アマチュアレスラーとして鳴らしたシニアは、最も手っ取り早い生活手段としてプロレスラーになったんだ。だから、私が物心をついたときから、我が家はプロレスラー一家であり、3カ月スパンでアメリカ各地を転々とする生活だった。トレーラーハウス暮らしだったり、モーテル住まいだったり、旅から旅への連続で、サーカス一座のような生活。それが幼少期の私たちの日常だったんだ」
そんなファンク一家が、日本のファンも憧れたテキサス州アマリロに定着するのは、ドリーが6歳か7歳の頃だったという。
「シニアは私が学校に通う年齢になる前には、どこかの土地に定着したいと考えていたようなんだ。そして、各地を転戦する中で、最も人気が出たのがアマリロだったので、ここを住処とすることにした。テキサスのアマリロといえば、西部開拓時代そのままのような、まさに“ワイルド・ウエスト”。そこで父は念願の自宅と牧場を持つことができた。こうして、我々のアイデンティティでもある、テキサスのカウボーイになったんだ」
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ドリーはここアマリロで、10代の頃からシニアにプロレスラーの英才教育を受ける。
「当時、アマリロの自宅ガレージにはレスリングマットがあり、家にはバーン・ガニア、ボブ・ガイゲルを始め、数多くの名レスラーがよく遊びに来ていたため、ガレージで彼らからレスリングの指導を受けたんだ。だから、父や世界チャンピオンたちが私の“家庭教師”であり、そこでのスパーリングでグチャグチャにされて、プロレスリングを憶えていったんだよ」
なぜ大学に進学したのか?
こうしてサラブレッドとして育てられたドリーは、大学にも“プロレスラーになるため”に進学する。
「私はハイスクール卒業と同時にプロレスラーになりたかったんだが、父が『レスラーとして成功するためには、大学を出なければダメだ』と言うから進学したんだ。プロレスはスポーツではあるけれど、ショーでもあり、なんといってもビジネスだ。プロレスラーは皆、デビューしたその日から個人事業主であり、父はプロモーター(興行主)でもあったので、父のビジネスをいつか引き継ぐためにも、大学で商学を学ぶ必要があった。
さらに、私はコミュニケーションを専攻して、スピーチやトークも学んだ。プロレスラーは人前に出る職業なので、これも後になってから役に立った。最初に『大学に行け』と言われたときは、意味がわからなかったが、父の言うとおりだったんだよ(笑)」
こうしてドリーは万全の状態で、大学卒業後の63年1月に21歳で初マットを踏む。そしてデビュー6カ月で、早くも“鉄人”ルー・テーズの持つ、当時のプロレス界最高峰と呼ばれたNWA世界ヘビー級王座に挑戦。69年には“荒法師”ジン・キニスキーを破り、27歳にしてNWA世界ヘビー級王者となり、4年3カ月にわたる長期政権を築いた。これはルー・テーズに次ぐ歴代2位の記録だ。

