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「猪木と馬場が、自信を与えてくれた」愛された外国人レスラー(享年85)が生前に語った“日本への感謝”…ドリー・ファンク・ジュニアとアントニオ猪木の名勝負
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堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ/アフロ
posted2026/08/09 11:01
1969年の初来日で、アントニオ猪木と60分フルタイムの熱戦を繰り広げたドリー・ファンク・ジュニア
“若獅子”アントニオ猪木との名勝負
日本マット初登場は、そのNWA王者になったばかりの69年12月。まだ、馬場も猪木も同じ団体に所属していた日本プロレスだった。父ドリー・ファンク・シニアを帯同した若き正統派王者の来日は、じつにフレッシュなムードに溢れており、このとき“若獅子”と呼ばれたアントニオ猪木とのNWA世界ヘビー級王座防衛戦(60分時間切れ引き分け)は、猪木の出世試合であると同時に、プロレス新時代到来を感じさせる名勝負となった。
「初めての日本は、とてもエキサイティングだったよ。猪木とは全くの初対面だったが、闘ってみて凄く才能あふれるレスラーだと感じた。また、猪木との試合を通じて感じたのは、日本のプロレスファンは、クオリティの高いレスリングを非常に好むということだね。日本の観客はアメリカの観客に比べると静かなんだけど、それは盛り上がっていないんじゃなくて、細かい技術まで固唾を飲んで観ているということに気づいた。ここを理解していない外国人レスラーが多いんだ。だから、私が日本でも成功できたのは、ファンの静かな熱意に応えて、毎日クオリティの高い試合を提供しようとしたからだと思うよ」
ドリーはなぜ“名伯楽”になったのか?
その後、日米両方で活躍するのと並行して、父シニアの死後は、弟テリーとともにアマリロでプロモーターとしても活動。さらに、アマリロに来た若い選手たちの指導も行い、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセンら、数多くの名レスラーを育てた。そんな名伯楽ドリーの選手育成法は次のようなものだ。
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「私が新人がジムに入ってきて最初に教えるのは、『自分に対して何ができるかではなく、ファンに何が提供できるのか』、そういう考えになるように教え込むんだ。どんな職業でも、その仕事の価値は顧客が決めるものだろう? とくにプロレスのようなエンターテインメントスポーツは、その意識が大事なんだよ。
また、基礎の重要性についてもしっかりと教える。基礎がしっかりしていて、自分の技術に自信を持っているレスラーだけが、大観衆を楽しませることができる。アメリカのプロレス界でよく言われる格言で、『会場が大きければ大きいほど、観客が多ければ多いほど、マットがやわらかくなる』というものがある。それができるのが名レスラーなんだ」
ドリーの指導法は、プロレスという「競技」がうまくなるようにコーチするだけでなく、「ビジネス」全般を教えるものだったのだ。だからこそ、ただ強いだけでなく、業界のトップに立つレスラーが次々と巣だっていったのだろう。

