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「猪木と馬場が、自信を与えてくれた」愛された外国人レスラー(享年85)が生前に語った“日本への感謝”…ドリー・ファンク・ジュニアとアントニオ猪木の名勝負

posted2026/08/09 11:01

 
「猪木と馬場が、自信を与えてくれた」愛された外国人レスラー(享年85)が生前に語った“日本への感謝”…ドリー・ファンク・ジュニアとアントニオ猪木の名勝負<Number Web> photograph by 東京スポーツ/アフロ

1969年の初来日で、アントニオ猪木と60分フルタイムの熱戦を繰り広げたドリー・ファンク・ジュニア

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 60年代から長きにわたり日米を股にかけて大活躍したプロレスラー、“グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニアがアメリカ現地時間の8月4日に亡くなった。享年85。

 ドリー・ファンク・ジュニアは、かつて“世界最高峰”と呼ばれたNWA世界ヘビー級王座に1969年2月から1973年5月まで4年3カ月の長きにわたり君臨した真の世界王者。69年11月にNWA世界王者として初来日した際は、アントニオ猪木と60分フルタイムの熱戦を展開。この試合は、猪木の生涯のベストバウトのひとつと言われている。

 そしてジャイアント馬場が72年10月に全日本プロレスを旗揚げしてからは、トップレスラー兼ブッカー(外国人レスラー招聘役)として全面協力。弟テリー・ファンクとの「ザ・ファンクス」として絶大な人気を誇った。

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 日本プロレス史において、もっともベビーフェース人気を獲得した外国人レスラーといえば、ザ・ファンクスをおいてほかにいないだろう。昭和の時代、ほとんどの外国人レスラーは、特撮ヒーロー番組における“怪人”や“怪獣”であり、アントニオ猪木やジャイアント馬場という日本人ヒーローの敵役だった。しかし、ファンクスは72年の全日本プロレス旗揚げ当時から、馬場の頼れるアメリカの盟友であり、70年代末から80年代初頭にかけては、子どもや若い女の子のあいだでも人気が爆発。それまでプロレス会場ではほとんど見かけなかった10代の女の子が親衛隊を結成して応援するなど、その人気は外国人レスラーというより、海の向こうからやってきたアイドルだった。

「日本のファンには、特別な思いがあるよ」

 事実、ビートルズのファンが、彼らの故郷である英国リヴァプールにまで足を運ぶのと同じように、ファンクスのファンも彼らの故郷である米国テキサス州アマリロを訪れることがたびたびあったという。そんな人気を博した外国人レスラーは、あとにも先にもファンクスだけだ。

 多くのファンにとって最も印象深いのは、77年末に行われた『世界オープンタッグ選手権』の優勝戦、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークとの死闘だろう。ブッチャーとシークによる反則の凶器攻撃により血だるまにされた弟テリーを身を挺して守った兄ドリーの姿は、なんとも頼もしく、その兄弟愛はブラウン管を通じて、全国のファンの涙を誘った。ウルトラマンにおけるゾフィーと並ぶ、頼りになる「兄貴」の象徴ともいえるのがドリーだった。

 今から7年前の2019年にドリーが来日した際、筆者はロングインタビューをする機会に恵まれた。

「ミスター・馬場も私の生徒であるジャンボ(鶴田)もすでにこの世にいないが、私は丈夫に生んでくれた両親に感謝している。そして、これだけ長く現役を続けることができたのは、ファンのおかげだ。とくに、熱狂的に応援してくれた日本のファンには、特別な思いがあるよ」

 そう語るドリーに、父ドリー・ファンク・シニアから続くプロレス一家の物語を語ってもらった内容を、今回あらためて紹介することで哀悼の意を表したい。

【次ページ】 「父や世界チャンピオンたちが私の“家庭教師”だった」

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