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落合博満が認めた「お前との勝負は三振でいい」“落合の天敵”盛田幸妃とは何者だったのか? 大酒飲みの無頼漢が“奇跡のリリーバー”と呼ばれるまで
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph bySankei Shimbun
posted2026/05/30 11:20
横浜時代の盛田幸妃。シュートを使った強烈な内角攻めで、落合博満をはじめ右打者に対して無類の強さを誇った
そう語る盛田だが、シュートを使った右打者への内角攻めは強烈だった。プロ通算は46死球ながら、与死球率0.68は極めて高い数値だ。落合にしてみれば、“ケンカ投法の盛田”をヘタに打ちにいって怪我でもしたら元も子もない。そう考えるのも当然だろう。
毎晩のように飲み歩き…球界関係者も呆れた
マウンド以外でも盛田の振る舞いは不敵そのものだった。1996年のキャンプでの出来事だ。
「宜野湾キャンプで、昼まで練習して午後からラジコンを作ってた。まだ26ぐらいなのにベテランより早く上がって、みんなが練習しているときに球場と隣接しているラグナガーデンホテルのベランダでラジコン作って、監督の大矢(明彦)さんはこっち見ている。ブンブンエンジン鳴らしたり、ボディに色塗るから体中シンナー臭くなるし、そりゃトレードで出したくなるわね」
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無類のラジコン好きなのかと思って尋ねると、「いや、嫌い」と平然と答える。それが盛田という男だった。
盛田の逸話はまだまだ尽きない。
「1993年は、1カ月間ろくに寝ないでキャンプができるかどうか、って遊びをしていた。有働(克也)と一緒に。部屋の前に『スナック嘉手納』と書いた紙を貼ってサロン状態にして、明け方までずっと飲んでいた」
明確な結果を残したことで、盛田は遠慮なく持ち前のヤンチャぶりを思う存分発揮する。大事な主力ということもあってか、首脳陣もあまり咎めることはなかった。野に放たれた虎は、思うがままに振る舞った。
タイトルを獲った3年後の1995年オフ、盛田は当時JALに勤めていた野坂倫子と結婚する。
1997年シーズンは先発に回ったが調子が出ず、肘の故障もあってオールスター以後は一軍登板なし。プロの世界は結果がすべてだ。目に余る横暴も成績が良ければ目を瞑るが一度成績が落ちれば厄介者扱いとされ、このオフに近鉄にトレードされる。
1998年、近鉄に移籍し、心機一転で臨んだシーズンは春先から好調で6月までに5勝を挙げる。近鉄時代は単身赴任だったため、さらに輪をかけて毎晩のように飲み歩いた。「噂には聞いていたが、ここまでとは思わなかった」と球団関係者たちは口を揃えて呆れていた。

