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「高田さんが危ない。いつ殺し合いになるか…」高田延彦vsバービック試合直前の“大事件”にUインターが揺れた日「死ぬ可能性もある」医師は告げた
posted2026/05/16 11:03
「試合放棄」後に控室で髙田延彦を非難するトレバー・バービック
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堀江ガンツGantz Horie
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東京スポーツ新聞社
今から35年前。1991年5月10日、後楽園ホールでUWFインターナショナル(Uインター)が旗揚げ戦をおこなった。当初話題性に乏しかったUインターを変えたのは、「髙田延彦vsトレバー・バービック」の一戦だった。“史上最も過激なプロレス団体”の原点に迫る――。《NumberWebドキュメント全3回の2回目/第3回に続く》
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東京での記者会見の5日後。アメリカ・ニューヨークにある元ヤンキースのミッキー・マントルが経営するミッキー・マントル・レストランで記者会見と「格闘技世界一決定戦」の調印式を行ない、髙田延彦は紋付羽織袴姿で出席。これはもちろん、1976年3月25日にニューヨークで行われたモハメド・アリ戦の調印式に、アントニオ猪木が紋付羽織袴姿で臨んだことを再現したもの。
平成の時代に入り、新日本プロレスから“猪木色”がどんどん薄れていく中、猪木の愛弟子だった髙田がエースを務め、もともと大の猪木信者だった宮戸優光がプロデュースするUインターが、“猪木イズム継承”を強く打ち出した格好だ。
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「格闘技世界一決定戦」と銘打った高田vsバービックは、猪木vsアリの表面だけを真似たものではなかった。驚くべきことにこの試合は、当時の異種格闘技戦としては異例の“リアルファイト”としておこなわれたのだ。
髙田延彦はなぜ“大博打”を打ったのか?
12・22両国は、Uインターにとって初のビッグマッチ。当時のUインターの会社規模からすると、両国国技館での興行は大博打であり、そこでもしエース髙田が敗れたら、団体は計り知れないダメージを負うのは明白であり、最悪そのまま崩壊もありえた。なぜ、そんな時にリスキーなリアルファイトに臨んだのか? のちにインタビューした際の髙田の答えは、簡潔明瞭だった。
「やっぱり、アリvs猪木戦を観たら、ボクシングvsプロレスはリアルでやるしかないでしょう」
