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「偏見、誤解…不本意この上ない」高田延彦vsバービック“大荒れリアルファイト”の内情…じつは地味だったUインターを変えた「格闘技戦」回帰
posted2026/05/16 11:02
バービックにハイキックを見舞う髙田延彦
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
東京スポーツ新聞社
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Uインターといえば、東京ドームでの新日本プロレスとの全面対抗戦や賞金1億円を用意したトーナメントの開催、さらに安生洋二によるヒクソン・グレイシーへの道場破りなど、90年代に刺激的な話題を提供し続けた、史上最も過激なプロレス団体のひとつとして知られている。
しかし1991年の旗揚げ当初は、じつは3派に分裂したUWF系団体の中でもっとも目立たない存在だった。
じつは話題性に乏しかったUインター旗揚げ
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もともと新生UWFは、80年代末から90年代初頭にかけて社会現象と呼ばれるブームを巻き起こすも、選手とフロントの確執が原因となり90年12月の松本大会をもって解散。91年に選手が主体となり新会社を設立して再出発する予定だったが、91年1月7日に前田日明邸で行われた選手の全体ミーティングで会議が紛糾。
結局、前田の解散宣言により選手はバラバラになり、髙田延彦、安生洋二、宮戸優光が中心となったUインター、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるが中心となりメガネスーパーが支援したプロフェッショナルレスリング藤原組、そして前田がクリス・ドールマンらオランダ勢の協力で始めたリングスの3派に分裂した。
そういった流れの中で前田日明が一人ぼっちになったリングス、メガネスーパーが設立したプロレス団体SWSとの交流で賛否両論が巻き起こった藤原組は必然的に注目を集めたが、これといった目新しさがなかったUインターは話題性に乏しかったのだ。
また、エースの髙田延彦もアクの強さに欠ける印象があった。
当時のファンにとってUWFといえば前田日明こそが絶対的な存在であり、髙田はあくまでナンバー2。いや、新生UWF時代に船木との2度の闘いで、一度は船木の掌底で“幻のKO”というシーンを作られ、再戦では掌底でまぶたをカットされてのTKO負けを喫しているため、3番手に後退している印象すらあった。
そのためUインターは新生UWFからもっとも多くの選手を継承したにもかかわらず、悪い言い方をすれば、象徴である前田や、急進的な船木、鈴木をのぞいた“その他大勢”的なイメージを持たれていたのだ。

