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甲子園の風BACK NUMBER
ナゾの甲子園監督、初出場で初優勝…“広島史上最強チーム”から50年、崇徳高を復活させた重要人物とは? 元カープの伝説的OB・山崎隆造の証言
text by

井上幸太Kota Inoue
photograph byKota Inoue
posted2026/03/19 06:02
2024年に完成した崇徳(広島)野球部の専用寮
「『オレは非常に運を持っている人間なんだ』と。『占い師に1000人乗った船が沈没したとしてもあなたは生き残るというお墨付きをもらっている。だからオレを信じて乗っかってこい』と言っていたことを、覚えています」
山崎はたしかに久保の“豪運”を見た。同年センバツの2回戦、鉾田一(茨城)に9回2死まで1点ビハインドで追い詰められるも、土俵際から4点を奪って逆転勝ちした試合である。
「久保先生が監督になった秋にポンポンと勝ち進んで甲子園が決まって、甲子園でも負け寸前から奇跡の大逆転という。その流れでバーンと優勝してしまった」
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山崎は運を強調するが、選手たちも粒ぞろいだった。同秋のドラフトでは、広島から山崎が1位、中堅手の小川達明が5位で指名。さらに、入団は拒否したものの、エース右腕の黒田真二が日本ハムから1位、應武も近鉄から3位指名を受けた。
伝説的優勝→低迷…なぜ?
部員ら最上級生は14人。最初から少数だったのではなく、「70、80人くらい」(山崎)の新入生が、猛練習で削がれ、研がれて生まれた精鋭だった。実力だけでなく、性格に一癖も二癖もある個性派集団は、試合となると自然と各々の仕事を完遂した。
「広島史上最強チーム」とも称されたこの世代は、広島の野球少年たちの心をつかみ、2学年下の後輩たちが主力となった1978年春にも甲子園の土を踏んだ。
いよいよ崇徳に黄金時代が到来する――。誰もがそう思った。が、現実は異なった。
1978年春以降の甲子園出場は、1993年春のみ。夏にいたっては、山崎らセンバツ優勝チームで乗り込んだ1976年を最後に遠ざかる。2006年までに夏の広島大会決勝に6度進出しながら全敗。一時は最強と称されたチームは、いつしか“悲運”の象徴へと姿を変えた。
甲子園から遠ざかれば、OBたちの熱気も下がる。山崎が「僕の大反省でもあるんですが」と伏し目がちに続ける。
「甲子園への道はすんなり行かないよね、となり、僕自身もプロでやっていくのに精いっぱいで、現役が終わってからも(プロで)指導者をやらせてもらって。大変申し訳ないのだけど、“母校離れ”じゃないけど、気持ちの上で疎遠になってしまったんですね」
その中でひとり、ふつふつと炎をたぎらせる男がいた。先述の應武である。

