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「猪木さんがボロボロに…」アントニオ猪木vsローラン・ボックなぜ“惨劇”は生まれたか?「俺、死ぬな…」対戦相手が証言した“地獄の墓掘り人”の恐怖
posted2025/12/26 17:27
1978年に行われ「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれた一戦、アントニオ猪木vsローラン・ボックとは何だったのか?
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堀江ガンツGantz Horie
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東京スポーツ新聞社
“地獄の墓掘り人”と呼ばれたローラン・ボックが亡くなったことが、12月19日付のドイツ地元紙で報じられた。享年81。
ローラン・ボックといえば、1978年11月25日に当時の西ドイツ・シュツットガルトのキレスベルクホールで行なわれ、アントニオ猪木に判定勝ちした一戦があまりにも有名だ。3週間におよぶ欧州遠征を敢行した猪木が、唯一、敗北を喫したこの試合は、日本でもテレビ朝日系『ワールドプロレスリング』で録画放送された。
当時、異種格闘技路線の真っ只中で向かうところ敵なしの強さを見せていた猪木が、不気味な風貌の無名レスラー、ボックにアマチュアレスリング仕込みの投げ技で何度もマットに叩き付けられ、10ラウンド判定負けを喫した姿はまさに衝撃であり、会場が薄暗く“地下プロレス”を思わせる雰囲気だったことも相まって、その凄惨な印象から「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれるようになった。
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全盛期の猪木に“地獄”を見せた、“墓掘り人”ボックとはどんなレスラーだったのか。「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれた猪木との闘いはどんなものだったのか。あらためて振り返ってみたい。
女子の試合を組み込み、ヒグマとのプロレスを企画
1944年8月、ローラン・ボックは戦時下のドイツで生まれた。14歳でレスリングを始め、ヨーロッパ選手権で上位入賞の実績を残したのち、1968年のメキシコシティオリンピックに、グレコローマン・ヘビー級の西ドイツ代表として出場。1972年のミュンヘンオリンピックにも出場予定だったが、西ドイツ・レスリング協会との対立などからナショナルチームを外れて不参加となり、73年にプロレスラーに転向した。
元オリンピアンの名声を持っていたボックだったが、プロレスラーとしては欧州マット界の主流派にはなれなかった。ボックは“業界のルール”を平気で破るようなところがあり、プロモーターから疎まれ、レスラー仲間からも敬遠されていたと言われる。つまり、アマチュア王者としてのプライドが邪魔をし、プロモーターの意に沿わず、また同業者である対戦相手を労わることもなかったため、疎まれたのだ。
主流派から外れたボックは、自らプロモーターとして興行を打つようになる。しかし、プロモーター業は甘いものではない。ボックは自らをエースにした興行を打っていくが、実力はあるものの決定的に華がないレスラーを目当てにプロレスを観に来る客は当然少なかった。ボックは打開策として女子プロレスの試合を組み込んだり、ヒグマとのプロレスを企画するまでにいたったが、そんなボックが起死回生のビッグイベントとして目をつけたのが、“モハメド・アリと引き分けた男”アントニオ猪木の招聘だった。

