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「猪木さんがボロボロに…」アントニオ猪木vsローラン・ボックなぜ“惨劇”は生まれたか?「俺、死ぬな…」対戦相手が証言した“地獄の墓掘り人”の恐怖 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2025/12/26 17:27

「猪木さんがボロボロに…」アントニオ猪木vsローラン・ボックなぜ“惨劇”は生まれたか?「俺、死ぬな…」対戦相手が証言した“地獄の墓掘り人”の恐怖<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社

1978年に行われ「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれた一戦、アントニオ猪木vsローラン・ボックとは何だったのか?

「アリと戦った猪木」に世界中からオファーが…

 1976年6月26日に日本武道館で行われた、アントニオ猪木とボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリの「格闘技世界一決定戦」は、日本だけでなく世界で話題を集めたが、リアルファイトであるが故に凡戦となり、猪木は世界中から酷評を浴び、残ったのは当時のお金で9億円もの借金だった。

 しかし、同時に、「アリと戦った猪木」の名は良くも悪くも広まり、世界中から試合のオファーが届くようにもなった。そして猪木は借金返済のためと、未知なる闘いにこそロマンを感じるタイプであったため、異種格闘技戦を始めとした異質な試合を数多くこなしていくこととなる。76年12月にパキスタンで行われた現地の英雄アクラム・ペールワンとの伝説的な一戦や、このローラン・ボック戦も、そんなアリ戦の影響下で行われた試合だった。

 こうして猪木側との交渉をまとめたボックは、1978年11月7日から29日にかけて「イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978」と題した大規模ツアーを開催(日本では「欧州選手権シリーズ」と呼ばれた)。このツアーには猪木だけでなく、ミュンヘンオリンピック柔道金メダリストのウィリエム・ルスカや、ドイツの隣国オーストリアの大物レスラー、オットー・ワンツも参戦。ボックがそうとう力を入れていたことがわかる。

猪木のコンディションは“最悪”だった

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 23日間で(エキシビション含め)22試合というハードスケジュールだったこのツアー。その内情は想像以上に熾烈を極めていたという。猪木のセコンド兼付き人としてツアーに同行した藤原喜明はこう語る。

「あのツアーは3週間でヨーロッパ各国を回ったので、とにかく移動がキツかったんだよ。オンボロバスで毎晩10何時間移動してね、猪木さんはベンツの乗用車だったけど、相当身体にこたえたはず。また、試合で使用するリングが、固くて粗末なリングばかりだったんだよ。あんなところで受け身なんか取ってられないし、そりゃケガもするよな」

 このツアー中、猪木は計3度ボックと対戦している。ツアー初日は対戦経験があるルスカに勝利したが、2戦目にボックと初対決すると、フロントスープレックスで固いマットに叩きつけられて右肩を負傷。それでも猪木は「イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978」の“主役”として、この固いリングで受け身を取り続け、終盤16戦目で行われたシュツットガルトでのボック戦の時は、すでに満身創痍になっていた。

「だからさ、猪木さんがボロボロにやられたように言われてるけど、本来、猪木さんは受け身がうまいから、スープレックスで何回か投げられてもどうってことないんだよ。でも、あの固いリングだと話が違ってくるよな。それで“惨劇”に見えたってことなんだろう」(藤原)

 実際、ボック戦の試合映像を見ると、決して猪木は一方的にやられていたわけではない。最悪のコンディションの中でボックの動きに対応し、関節技では優位に立つ場面もあった。また、9ラウンドには猪木の頭突きによりボックの眉間から鮮血も見られ、試合後は顔面が腫れ上がった。「シュツットガルトの惨劇」は、両者ともにダメージを負った死闘だったとも言えるだろう。

【次ページ】 「俺、死ぬな…」対峙した選手の証言

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