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「猪木さんがボロボロに…」アントニオ猪木vsローラン・ボックなぜ“惨劇”は生まれたか?「俺、死ぬな…」対戦相手が証言した“地獄の墓掘り人”の恐怖 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by東京スポーツ新聞社

posted2025/12/26 17:27

「猪木さんがボロボロに…」アントニオ猪木vsローラン・ボックなぜ“惨劇”は生まれたか?「俺、死ぬな…」対戦相手が証言した“地獄の墓掘り人”の恐怖<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社

1978年に行われ「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれた一戦、アントニオ猪木vsローラン・ボックとは何だったのか?

「俺、死ぬな…」対峙した選手の証言

 結局、「イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978」は興行的に失敗しボックは大赤字を被ることとなる。

 その後、新日本プロレスは当然のようにボックを日本に呼び、猪木のリベンジの機会を作るべく79年7月に再戦を組んだが、ボックは試合前に自動車事故に遭い、血栓症をわずらい来日中止。

 “惨劇”から2年8カ月後の81年7月になってようやく来日が実現するも血栓症の悪化から往年の迫力は見られなかった。それでも、ボックの来日第1戦の相手を務めた木村健悟は、次のような証言を残している。

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「俺はね、今まで闘った外国人レスラーで誰が一番強かったかって聞かれたら、『ローラン・ボック』って答える。もうね、妥協がない。ダブルアームスープレックスでリングの端から端まで投げられて、ロープをつかんで立ち上がった時、『あっ、俺、死ぬな……』って思ったもん。生きてリングを降りられないなって。そんなふうに感じたのは、ローラン・ボックだけだったから」

 2度目の来日となる81年暮れには『第2回MSGタッグリーグ戦』終盤戦に特別参加。12月8日の蔵前国技館では、スタン・ハンセンと夢のタッグを結成し、アントニオ猪木&藤波辰巳組に勝利したが、これが事実上最後の栄光となった。

猪木との“決着戦”が行われなかった理由

 翌82年の元日、後楽園ホールで実現した猪木との3年越しの再戦でもボックは精彩を欠き反則負けという消化不良の結果で終わった。それでも決着戦は、83年の5月から開催が決まっていたリアル・ワールド・チャンピオンを決めるビッグイベント『IWGP』で行なわれるはずであったが、なんとボックは78年のツアーでの莫大な赤字による税金未払いなどが元で、懲役2年の有罪判決を受け収監され、そのまま引退。猪木のリベンジの機会は永久に失われてしまったのだ。

 しかし、結果的に猪木に“勝ち逃げ”したことによって、皮肉にもローラン・ボックという幻想は巨大化し、“伝説の怪豪”としてファンの脳裏に深く刻まれることとなった。

 “地獄の墓掘り人”ローラン・ボックの恐るべき強さは、ブラウン管を通じて見た薄暗い欧州マットの記憶と共に、昭和のプロレスファンの心の中で今も不気味に生き続けている。

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